よくがんばりました。

勘を取り戻すまで、短くてもいいからとにかくブログを書くことにする。
今日は午後から編集会議。
紛糾が予想されるテーマがあったため、朝からお腹の調子が悪い。
テニスの選手だったころから、重要な試合の前になるとお腹が痛くなるという傾向があった。
見かけによらずデリケートなのだ、わたしは。


でも、周囲の方々の愛情あふれるサポートのおかげで、
なんとか今日のところは乗り切ることができた。
しどろもどろになっているわたしを見て、
皆さまがナイトさながら、救いの手をさしのべてくれるのだ。
先生方が賢い発言をされるたびに、
「そうそう、そうなんです、わたしが言いたかったのは、そーゆーことなんです」
としか言えないのはなんとも情けないのだが、
まあ自分としては足りない頭を精一杯はたらかせてがんばったということで、
「たいへんよくできました」マークではないけれど、
「よくがんばりました」マークをぺたっと貼ってもいいんじゃないかな、と思う1日だった。


先日、ある人と食事をしているときに、たまたま家族のことが話題になった。
わたしはごく自然に、明るく、妹の話をして、
20代の前半に妹と二人暮らしをしていたことや、一緒に海外旅行に行ったことなどを話し、
妹が死んでしまった今思うと、そんなふうに濃密な時間を過ごしておいて、ほんとうに良かったと思う、
ということを、明るく話しているつもりだった。
それなのになぜか、話している途中で涙があふれてしまって、
せっかく楽しく食事をしているのに、あれえ、どうして、ばっかみたい、と思うんだけど、
涙が勝手に出てきちゃって、止まらなくて、困った。


それで思ったのは、人はよく、親しい人の死を「乗り越える」みたいな言い方をするけれど、
そんなこと、つまり「乗り越える」なんてことは、まず不可能なんじゃないかな、と。
妹が死んでからもう8年も経っているけれど、
どう考えてもわたしは「乗り越えた」という気がしない。
妹と過ごした33年の楽しかったことを思いだすたびに、
これから先の妹の不在に思い至って涙が出る。


世の中では大きな地震があって、原発事故があって、
そのことで大きな苦しみを背負った人たちがいて、
その人たちのために自分は何ができるのか、とか、考えないわけじゃないし、
ボランティアとか募金とか反核活動とかを率先して行っている人たちのことを否定するつもりもないんだけど、
わたしは社会性なんか皆無の、もっと個人的な苦しみや悲しみのほうに、心ひかれてしまうようだ。
村上春樹の「核ノー」スピーチよりも、河野裕子の絶筆の短歌のほうが、自分にとってはずっと価値あるものに思える。(もちろん、この二つを比較することに、何の意味もないのだけれど……)


明日は久々の休日。
読書不調を打破すべく、ディケンズでも読むかなー。