2冊読了

花巻温泉へ、行きの携帯本はよしもとばなな『どんぐり姉妹』。

どんぐり姉妹

どんぐり姉妹

前半がとくによかった。
紀伊國屋書評空間の阿部先生の書評を読み、
これはなかなか私好みかも、と、ここのところ遠ざかっていたばなな本を購入。大正解。
ただし、こんな感動的な姉妹ものを、電車の中で読もうとしたのは間違いだった。
新幹線の中で涙が止まらなくて困った。
たとえば、妹を置いておばの家を出ていった姉が、
数年後に妹を迎えにくる場面。


   おじいちゃんの家に住む権利を勝ち取り、おばさんの家に私を迎えにきたときの姉は、
   ジャンヌ・ダルクみたいにりりしかった。
   がりがりになっていた私はすぐへたってしまうので電車に乗れず、
   タクシーの中で毛布にくるまれて、姉の肩に肩をもたせかけていた。
   「ゲロ吐くなよ。」
   と姉は小さな声で言った。
   そんな突き放したような言い方をしていても姉は泣いていた。
   まっすぐに前を見た細い瞳から涙がぽろぽろこぼれていた。
   夜のネオンや車のライトが姉のほほを照らし、まるで博多人形みたいにつるつるに光って見えた。(32ページ)


エネルギッシュで行動的な姉と、繊細でおっとりしているがしっかり者の妹。
どん子とぐり子という名前をはじめ、結構とっぴな設定なのに、
自分と妹の話に思いきりシンクロさせてしまい、
十代の後半から妹が死ぬ三十代半ばまで、妹と自分がどんなふうに喜びや苦しみを分かち合い、助け合い、
泣いたり笑ったりしながら生きてきたかを思い出したらもう、
人目をはばかる余裕なんてまったくなくなってしまった。


この物語の姉妹は「気難しい」という評判のおじいちゃんと一緒に暮らすことになるのだが、
このおじいちゃんとの関係がまたぐっとくる。
あるとき、ぐり子はおじいちゃんに、「家の中を人がうろうろしている生活になって、いやじゃないですか?」とたずねる。
するとおじいちゃんが、「最近はいいものだなと思うようになったよ。」と答える。
そのあとの描写。


   ここで私がなにかいいことを言ったら、ばしっと貝が口をとじるみたいに、
   ねむの木がばさっと葉を閉じるように、おじいちゃんは不機嫌になる、そう直感して私はただうなずいて部屋を出た。
   笑顔さえつけたさなかった。(36ページ)


この最後の一文が、よしもとばなな的。
しびれた。


ただ、残念ながら後半、麦くんの夢の話が出てくるあたりから、
ちょっとわたしはついていけない感じがした。
そういえば川上弘美の『真鶴』もそうだった。
幽霊とか夢とか、そういう話がでてくると、すごく嫌、というわけじゃないんだけど、
いまひとつのれなくなってしまう。まあそれは、作品の問題というよりわたしの好みの問題なのだろう。
いずれにしても、途中大泣きしながら、新幹線が新花巻に着くころには読了。よい読書タイムだった。


温泉で読み始めたのは予定どおりメアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(小林章夫訳)。

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

びっくりするほど平易な訳。とくに、物語のいちばんの外枠になっているウォルトンの手紙なんて、
わたしが訳した子ども向けの絵本とほとんど変わらないくらいの平易さだ。
もちろん、物語の核心、怪物の語りの部分は、
ちょっとゴシックっぽいというか、古めかしい表現を使ったりして、雰囲気は出している。
おかげさまでするする読めて、帰りの新幹線の途中で読了。


この小説はいろいろ読みどころがあって、
枠構造になっていることや、怪物の言語の習得の話、怪物の悲しみ、ヨーロッパの風景描写、
さらに、メアリー・シェリーという作者その人にまつわるさまざまなエピソードもなかなか興味深い。
けれども今回新訳で読み返してみていちばん印象に残ったのは、
怪物が隣家の人々に親愛の情を抱いて近づいたのに裏切られるというエピソードだった。
ああ、これって「ごんぎつね」だな、と思ったのだ。
愛情や善意は、必ず相手に伝わるわけじゃない――という残酷な真実を、
日本の子どもは小学校4年生でつきつけられるわけだけど、
イギリスの子どもたちは「フランケンシュタイン」で知るのかも。
愛情や善意、それにもうひとつ、正義をつけくわえてもいいだろう。
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、その暗いトーンのまま最後まで突っ走る。
SF小説の祖、といわれるくらい、現実味のない奇想天外な設定にもかかわらず、
読み終えるとどよーんと落ち込んでしまう、暗く救いのない小説だ。
すごく面白くて、よくできた小説なんだけどね。


……などと書いているうちに、年が明けてしまった。
大急ぎで2010年のベスト5を。