正義感について

明日の朝までに、大量のお役所文書を重箱の隅をつつくように読み、
疑問をピックアップするという作業をしなくてはならない。
でも、一ヶ月もたたないうちに「毎日更新」が挫折するのも悔しいので、
とりあえず短くてもいいから、(後で書き直してもいいから)書いておこうと思う。


小さい頃から正義感が強かった。
小学校の通信簿に、「○○さんは正義の味方です」と書かれたことがあるくらいだ。
「卑怯」な人は大嫌いだし、卑怯な大人にだけはなるまい、と思っていた。


正義感というのは、案外くせ者だ、ということがわかってきたのは、
ずいぶん年をとってからのように思う。
正しさをふりかざして進んでいくことは、時にはひどく残酷なことだと認識していながら、
それでもやはり生来の気性は直しがたく、
「ずるい」言動を見ると、口をはさまずにはいられない。
それも、自分の利益とはまったく関係のないことでも、いや、むしろ自分の損得とは無縁なことであればなおさら、
立ち向かっていかずにはいられないのだ。
ずるいこと、卑怯なことをしてしまった人の弱さや胸の痛みを、わかっているくせに。
結局、人の心の平安よりも、自分の心の平安を選んでいるのだ、と思う。
正義感が強いことなど、大人になったら何らほめられることじゃないな、とも。


最近思うのは、大人になったら、正義感を他人に対して発揮するのではなく、
自分自身に対する戒めとして、自分自身に対してのみ発揮するのがよい、ということだ。
他人がどんなにずるかろうが、卑怯だろうが、淡々とやりすごす。口をはさまない。
自分は絶対に、ずるいことはしない、卑怯なふるまいはしない、と心に念じて。
ただこの場合、だれかがだれかのずるい行い、卑怯な言動の犠牲になって、ひどい目にあっている場合、
どうしたらよいのだろう、と思う。
たぶんそういう場合だけは、他人に対して正義感を発揮して立ち向かっていってもよい、と思いたい。
犠牲者のいない、自分に利するがためのずるさ、卑怯は、右から左へ軽く受け流せばよいのだ。


ちょっとだけ、のつもりが、結構長く書いてしまった。
この頃、年のせいか、若いころ是と思っていたことに、疑問を感じることが多くなった。
たとえば最近、自律的にばかり行動していないで、
時には何も考えずに流れに身を任せてみることも必要なのかな、と思ったりする。
ま、そんなふうにしてみても、やっぱり波瀾万丈な人生は、変わらないかもしれないけど。