文学作品を読むということ

ここのところあまり読書がはかどらず、ちゃんと読了した本(書籍)は、
ベネット『やんごとなき読者』と、小谷野敦『「こころ」は本当に名作か』の2冊。
あと、河出の世界文学全集で、エリアーデ『マイトレイ』も、さっき読了。
これについては、モラヴィア『軽蔑』も読み終えてから、感想を書くつもり。


まず、『やんごとなき読者』。

やんごとなき読者

やんごとなき読者

前にもちらっと書いたけれど、残念ながらわたしの知識が足りなくて、全編にちりばめられている(らしき)ユーモアが、
いまひとつ理解できていないように思う。
かといって、固有名詞をネットで調べながら読む、なんて無粋な読み方はしたくないし……。
解説にあるオブザーヴァーの書評「人生を変え、視野を広げ、他人の身になって考えさせ、
育ちや階級や教育の束縛から人を解放する読書の力の大真面目な宣言でもある。」(166ページ)と言われてしまうと、
うーん、そんなに大仰な本かなあ、と思ったりもする。
むしろ、もっと軽やかに、本好き同士が自分たちだけでわかるような言葉でこそこそっと感想を言いあって満足、というような本だと思う。


ただ、訳者あとがきにあるように、「『本を読むことの意味』をめぐる女王の台詞や思索の数々にうなずく部分が多い」のは確かで、
私が共感したのは、たとえば、こういう女王の台詞。
   「ご存じのように、本というものが行動のきっかけになることはめったにありません。
    たいていは、ひょっとすると自分でも気づかないうちにしていた決意に裏づけを与えるだけなのです。
    本に向かうのは自分の確信を裏づけるためです。本はいわばけりをつけてくれるのです。」(146ページ)
翻訳がうまいのかもしれないが、本はいわばけりをつけてくれるのです、っていうの、いいなあ。
当然ながら、ここで言っている「本」というのは、いわゆるハウツーものや世界情勢に関する情報などではなく、
物語や詩、戯曲、伝記などの文学作品のことだ。


もう一冊の読了本も、文学作品を読む、ということについて書いてある。
こちらはそこに挙げられている作品の多くが既読、少なくともあらすじくらいは知っている作品ということもあり、
時間を忘れて一気に読了した。

『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内 (新潮新書)

『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内 (新潮新書)

この本を書くにあたっての著者の基本的な姿勢は、第一章のタイトルに端的に表れていると思う。
「文学作品のよしあしに普遍的基準はない」。


仕事柄、「文学(作品)がわかる」とか「わからない」といったことが話題になることがある。
評論の話をしているときは冷静なのに、話が文学になるととたんにそわそわして、
「いや、自分は文学はわからないから……」と謙遜したり、逆に、
「あなたは自分が文学がわかっていると思っているのだろうが、それは傲慢だ」とキレたりする人がいる。
そのたびに、どうしてなのかなあ、と不思議な気がした。
たぶん、そういう人は、「文学がわかる」ということに、何か基準みたいなものがあって、
その基準に達するためには、試験勉強のような努力をしなくてはいけないと思っているのだろう。


博識の作家・比較文学者・文芸評論家の小谷野氏は、上の問題について、あっさりとこう書いている。
   「ところで、文学や音楽や美術、映画などが『分かる』というのはどういうことか、と訊く若い人がいるが、
    これは、単に『面白い』という意味である。」(30ページ)
世間が「名作」と言っていても、自分が面白くなければ「面白くない」と言えばいいのだ、という著者の宣言を最初にがっちり受け止めてしまえば、
その後の「本文」とも言うべき第二章「日本人必読の名作たち」、第三章「私には疑わしい『名作』」は、
にやにやしながら楽しく読み進めることができる。
やっぱり何と言っても面白いのは第三章で、残念ながらわたしが「面白い」と思っている作品も、こてんぱんにけなされていたりするのだけれど、
不思議にいやな感じはしない。
そうかあ、小谷野先生は、そういうふうに思うのね、やっぱりわたしのは読みが浅いのかしらあ、でも、わたしは女だしぃ、ってくらいのもの。
それよりも、わたしが賛美している作品が二章で賛美されていたり、
わたしが「??」と思っている大作家の作品が、三章で「全然感心できない」と断じられたりして、うふふって思うことのほうが大きい。


というわけでこの本は、ここでさまざまに論評されているからといって自分の読書の方向を大きく変えなくてはなどと思ってしまう人には不向き。
でも、そうではなくて、あらっ、とか、ふふっ、とか思いながら、著者の案内に身をゆだねることができれば、有益なブックガイドになると思う。
タイトルから、「名作批判」ばかりをしている本かと思われるかもしれないが、
たとえばシェイクスピアの項(55〜61ページ)では、日本人がシェイクスピア作品を読むとしたら、こういった作品から読み始めて、
次にこの辺の作品を読んで、上演も観るといいよ、この人の演出なら安心だよ、というような、きわめて真っ当なアドバイスも載っている。
(だれの訳がおすすめ、ということについての言及はなかったけど……)


個人的には、「児童文学の古典」というコラムがあるのがうれしかった。
このテーマで、もう少し詳しいものが読みたい。
あと、「私は、高校などでの国語教育というのは、論理的で正確な日本語の読み書きと古典文法などに限定すべきで、
文学教育はすべきでないという考えである。」(220ページ)と書いてあって、そうかあ、とちょっとしょんぼりした。


明日は、青山ブックセンターで行われるレベッカ・ブラウン来日記念イベントに行く予定。
人が集まるのかなあ、と思っていたけれど、昨日ABCのホームページをみたら、既に満員御礼になっていて、
さすが、柴田元幸効果は絶大。