福原麟太郎『読書と或る人生』
今年最初の読了本は、先日古書市で購入したこの本。
- 作者: 福原麟太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1967/05
- メディア: 単行本
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体力が落ちているせいか、読書もあまりはかどらず、
ぼんやりテレビやビデオを観ていた。
年始2日には体調もだいぶ元に戻り、3日4日と茨城方面へ。
3日の常磐線特急の車中で、上記の本を読了。
「選書」ということもあり、内容はさほど深くなくて、雑談風の軽い読書エッセイという趣。
それでも、著者の博識と興味の広範さは、現在巷に出回っている読書エッセイとは、到底比べるべくもない。
書き出しから著者は、「私はどう思っても、読書家といううちには入らない。」と謙遜しているけれども、
著者の並べている固有名詞(書名や作家名)を眺めるだけでも、ははあ、おそれいりました、という感じで、
自分の浅学を恥じる。
著者の言う「たしなみとしての読書」を、「たのしみとしての読書」「くつろぎとしての読書」とともに、
続けていきたいと思う。
そして、今年もこのブログでは、福原の言うような「感想文」を、ずるずると書き続けよう。
……一般読者は書評家でも評論家でもないのだから、
自分の生活に何を教え、何を加えるかという点を重視すべきであると思う。
それから、正直に自分の感想を検分して、遠慮なく評価しておくことが必要である。
そういうことはわけなくできる気がするけれども、実際にはなかなかむずかしい。
それは、在来の評価あるいは世上時流の批評があって、それにひかれるからである。
人は存外、流布している言葉遣いに動かされる。
流行語の中には、「封建的」などいう、誠にあいまいな、しかも一度口にすると、
何だかそのものの急所をえぐったという心持を起こさせ、それを言いさえすれば、判決がついてしまうというコトバ
(用語にすぎない。思想でも何でもないただのコトバなのだ)があるものだ。
人はそういう言葉を使いたがる。安易にそのコトバを自分の読んだ本にあてはめて、
それをもって自分の評価だと思い込んでしまう。そういうのをしりぞけて、
それは世間流行の評語にすぎない、自分は、この本を読み、この文章に接して、本当はどんなことを考えたか、
それを忠実に言い現してみる習慣をつけたいものである。
(136−137ページ)
それにしても、40年前の「本をめぐる世界」は、ずいぶん輝いていたんだなあ。
今年元旦の朝日新聞の広告では、多くの出版社が「本の復権」というようなことをうたっていた。
40年前の華やぎが戻るなんてことはのぞめないだろうけれど、
一般読者として、ギョーカイの片隅で働く一人として、
「本をめぐる世界」が少しでも元気になるように、がんばらなくちゃな、と思う。
WEBやデジタルにもそれなりに魅力はあるけれど、
やっぱり「紙」じゃなきゃだめな部分もあるよね。