悲恋の詩人ダウスン

そういえば昨日、「仕事とは対極にあるような本」を読了したことを思い出した。

悲恋の詩人ダウスン (集英社新書 445F)

悲恋の詩人ダウスン (集英社新書 445F)

アーネスト・ダウスンという詩人を知っている人は、どれくらいいるだろうか。
「ダウスンとよく似た境遇におかれた詩人として、しばしば比較されるのはジョン・キーツである。」(10ページ)
とあるけれど、果たしてジョン・キーツのことだって、知っている人の数はいかほどか。
それでもわたしは、この本を買ってしまった。


   ダウスンは、しかし、究極の詩人ではあっても、大詩人ではなかった。
   だから、彼の作品の翻訳は日本で何冊か出たけれども、彼自身について書かれた一冊の書物というものは、まだない。
   わたしはそれを書いてみようと思う。
   もとより紙数に限りがあるから、本書は彼の「評伝」といえるようなものではない。
   わたしはただダウスンの悲しい一生を、しばらく読者と共にたどって、かれの詩を口ずさもうと思うのである。
   (10ー11ページ)


いいなあ、この最後の一行。
何の役にも立ちそうにない。無駄な感じがたまらない。
深夜、読み始めたらとまらなくなって、結局、最後まで読んでしまった(ちょっととばし読みだけど)。
晩年のダウスンの様子はあんまりかわいそうで、キーツなんてくらべものにならないと思った。


   顔は青ざめ、やつれていて、ほとんど襤褸というに近い服を着たアーネスト・ダウスンは、
   話し相手を求めてバーからバーへ動きまわった。
   友人が見つかると、その顔は心にしみる不思議な人なつっこさにパッと輝いたので、
   人は彼の――控えめに言っても――無礼ともいうべき服装を忘れるほどだった。
   彼はけして文無しではなく、いつも自分から人におごった。……(『書簡集』より)
   (106−107ページ)


わたしはこういう男に弱い。
こういう「心にしみる不思議な人なつっこさにパッと輝」く笑顔に、
コロッとまいってしまうのだ。
……なんてことは、どうでもいいような話。でも、こういう読書こそが、わたしには最高の贅沢。