『めぐりあう時間たち』

1週間以上更新をさぼってしまった。
前回のブログがかなり不機嫌モードだったため、
この間ずっと、「不機嫌なトップページ」になってしまったことを、かなり悔やんでいる。
なぜなら……


仕事はたしかにいまいちなのだけれど、一方で、実は読書が絶好調で、
全体としてはこの間、わたしはかなり「ご機嫌」だったのだから。
古典新訳文庫の『野性の呼び声』がすばらしかったことは前回書いた。
そのあと読み始めたオーヘンリーがいまいちのりきれず、何を読もうかなあと思っていたある日、
レンタルDVDで「めぐりあう時間たち」を観た。

めぐりあう時間たち [DVD]

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これがものすごくよかった。
もちろん、この映画が、Michael Cunninghamの小説 "The Hours"を原作としていることも、
その小説が高橋和久氏の翻訳で集英社から刊行されていることも、
この小説がヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』を下敷きにしていることも、知っていた。
知っていたからこそ、映画の評判を小耳にはさみながらも、
まずは本のほうを読まないと……やっぱり原書に挑戦するべきか……いや、ウルフの原作を原書で読むほうが先、
などという思いが頭をかけめぐり、今頃になって何の脈絡もなくこの映画をみたのだった。


なんだか言い訳が長くなってしまったけれども、とにかくこの映画をみて、
「このお話はものすごく好きだ」と思い、すぐに読書計画を変更して、
刊行直後に購入済みだった、小説のほうを読み始めたのだった。

あっという間に読了。
すばらしい。
映画もよかったけれど、やっぱりこれは、小説を読まなくてはいけない。
1923年ロンドン郊外、1949年ロサンジェルス、20世紀の終わりのニューヨーク、と、
三つの舞台に三人の中年女性(三人の「ダロウェイ夫人」)を配して描いていくという構成はもちろん巧みだ。
それぞれの人物造型もすばらしいし、リチャードをはじめ脇役の男性陣も魅力的だし、
それぞれの時代と土地の雰囲気をみごとに伝える情景描写も圧倒的に美しい。
これほど完璧な小説ならば、ベストセラーになるのは当然だろうし、
映画化作品にメリル・ストリープのような大女優が出演しようと思うのもうなずける。


でも、わたしがもっとも圧倒されたというか、「参りました」と思ったのは、
この小説の「細部」の描写の力なのだった。
読み始めてからずっと、至るところで「うわあ」とか「はああ」とかあえぎながら読んでいたので、
「ここをとくに」と限定して引用するのはほんとうに難しいのだけれど、
それではあんまりだと思うので、あとがきで翻訳者の高橋さんも「ストーリーが与えてくれる感動をとくに楽しんだ」という、
そして、わたし自身もとくに思いいれたっぷりに読んだ、
1949年ロサンジェルスの中年女性「ミセス・ブラウン」の章の一部を引用したい。


   ――人生、ロンドン、六月のこの瞬間。
   彼女は小麦粉をふるいにかけて、青いボウルに落としはじめる。窓の外にはこの家と隣家を隔てている細い芝生の帯。
  陽光の照り返しで眩しく光る隣家のガレージの白いスタッコ塗りの壁に、小鳥の影が筋をつけている。
  ローラはその小鳥の影に、まばゆい白と緑の帯に、ほんの一瞬だけれども深い喜びを感じる。目の前のカウンターにのったボウルは、
  白亜を思わせるようなわずかに褪色した薄青色。縁のところに白い葉の模様が細い帯状に描かれている。
  その葉はどれも同じかたちに図案化されて、少し漫画じみており、熊手を思わせる角度に傾いている。
  うち一枚がわきのところに小さい正三角形の刻み目のような傷を受けているのも、非のうちどころがなく、必然のことであるように思える。
  細かな白い粉の雨がそのボウルにふりそそぐ。(96ページ)


引用冒頭の一行は、ローラ・ブラウンが前夜に読んでいた『ダロウェイ夫人』の一節。
その後の長いパラグラフが、1949年ロサンジェルスに住む、絵に描いたような幸福な家庭の主婦であるローラが、
夫の誕生日にケーキを焼こうとしている場面である。
ローラはこの後、ケーキを完成させ(失敗作だと思い)、友人の訪問を経てひとつめの(失敗作の)ケーキを捨て、
ふたつめのケーキを完成させ(今度は成功し)、子どもを預け、家出する。
映画ではこのローラの行動の必然性がいまひとつよくわからず、やたらと「思わせぶり」な感じがしたのだけれど、
小説のほうはそうではない。当然ながら、小説ではローラの行動の必然性が「論理的に」説明されている、というわけではない。
上に引用したような淡々とした文章を読んでいくと、ローラの家出の意味が、「うんうん、わかるよ、ほかのひとにはわからなくても、
わたしにはわかる」という気分にさせられてしまうのだ(これはわたしが「家出」の常習犯だということとは無関係なハズ……)。


ローラは結局、このときは何事もなかったように家に戻り、誠実だが愚鈍な夫はローラの内面のゆれにまったく気づかない。
そもそもホテルの部屋で2時間半本を読みふけっただけなのだから、これは「家出」などではないのかもしれない。
これが、この小説の「大親分」とも言うべき小説『ダロウェイ夫人』の作者ヴァージニア・ウルフが言うところの、
「ふつうの日の、ふつうの心」(訳者あとがきより)なのだ。
ローラはその後、ほんとうに夫と二人の子どもを捨てて家出をするのだけれど、
それではこの「ほんとうに家出をした日」は「とくべつな日」かというと、そうではないはずだ。
この小説で描かれている「1日」が、外から見て「とくべつな日」っぽいのは、現代のニューヨークの「ミセス・ダロウェイ」だけだ。
「ミセス・ウルフ」も「ミセス・ブラウン」も、小説で描かれている「1日」とは別の日に、「自殺」や「家出」を敢行するのだから。


日当たりのよいキッチン、青いボウル、ふるいにかけられた粉。
この作者は男性なのに、どうしてこんなにみごとに、女性の「ふつうの日の、ふつうの心」を描き出せるのだろう。
ケーキを焼く、花を買う、ホームパーティを仕切る。
そうだ、女の人生はそれだけで成り立っている、と思わず言ってみたくなる。
そうなのだ、せっかくケーキを焼いたのに、クリームのバラの位置に失敗してアイシングの夫の名前がきれいに入らなかったら、
もう、何もかもだいなしなのだ。だからやり直しをする、夫に気づかれないようにそっと。
……そうなのだ、マーボー豆腐をつくるときは、ちゃんとひき肉をいためてつくらなくちゃいけない、
たとえ、丸美屋のマーボー豆腐の素でつくったほうがずっと簡単で安価で美味しくできるとしても……。(この2行、意味不明ですね)


例によって自分にひきつけすぎてわけがわからなくなってしまったので、このへんでやめる。
とにかくこの小説は、レッシングの『黄金のノート』につづき、わが「生涯のベスト10」に入るのではないかと思うくらい、
ものすごくいい小説だと思う。
翻訳がすばらしいのはいうまでもない。


さて、読書はこのあと、古典新訳文庫に戻り、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』を読書中。
これもまた、カニンガムとは別の意味でおもしろく、ぐいぐいひきこまれて読んでいる。
読書が好調だとどうしても夜更かしがしたくなるし、会社を休みたくなるのでこまる。
また、うちの同居人は自分の読書が不調だとあれこれと話しかけてきてわたしのじゃまをし、
自分の読書が好調だと自分の読んでいる本のストーリーやおもしろい場面を事細かに話そうとしてわたしのじゃまをする。
現在はこの後者のパターンだが、いずれにしてもわたしの読書がさまたげられることに変わりはない。
(で、当然ながらこのことは、お互いサマなのだった……)


昨日は朝4時起きで大阪日帰り出張。参加した研究会はとてもよかったのだけれど、帰宅したときはへとへとのよれよれ。
そういうわけで、今日はせっかくの日曜日なのに、午前中は家でぐだぐだしてしまった。
午後、西荻窪の広島風お好み焼き屋に行き(すごくおいしかった!)、わたしは久しぶりに(同居人は一週間ぶりに)音羽館に寄り、
それぞれにお目当ての本を購入してウキウキと帰宅。
ちなみにわたしが買ったのは次の3冊。
田村隆一対話集『青い廃墟にて』(毎日新聞社
・北条文緒『翻訳と異文化』(みすず書房
北上次郎『うろたえる父、溺愛する母』(筑摩書房
全部で2100円。あまり古本屋で買い物をするほうではないので、高いのか安いのかよくわからない。


それで、帰宅したら「読書の夕べ」になるはずだったのに、
同居人が「R−1グランプリ」「レッドカーペット」と、テレビのお笑い番組を観たがり、
結局、両者合計で5時間ぐらいテレビに釘づけ、我が家は「お笑いの夕べ」となった。
「ヒットエンドラ〜ン」と口ずさみながらいつの間にか寝入った同居人を横目に、
わたしはせっせとひさびさのブログ更新をしている。
「どうせたいした内容じゃないんだから、せめてマメに更新しないと」と反省しながら。


……こんなふうにして、わたしの「ふつうの日」がおわる。
そう、わたしは思う、一日が終わるべき時間だわ。


   慰めになるのはただ――思いもかけず、あらゆる予想を裏切って、わたしたちの人生がはじけるように開かれ、
  それまで心に思い描いていたことすべてをわたしたちに与えてくれると思われる一時間が、ここに、或いはそこにあること。
  もっとも、子供たち以外の(いや子供たちでさえ、そうかもしれない)だれもが、そうした時間のあとにはもっとずっと陰鬱で、
  はるかに困難な時間が否応なく続いていることを知っている。
  それでも、わたしたちはこの街を、朝を、心から愛する。なににもまして、もっと多くのことを期待するのだ。
  わたしたちがどうしてこんなに人生を愛するのか、だれにも分からない。
  (『めぐりあう時間たち』270ページ)