文学を大衆から遠ざけたのはだれか

今日は「一オースティン読者の『高慢と偏見』」という講演タイトルにひかれて、
明治学院大学で開かれたとある会合に行ってきた。
このタイトルは、一オースティン「学者」ではなく、「読者」であるところが重要。
講演された高橋和久さんは、英文学者として大変高名な方だけれども、
今日は「一読者」として、オースティンのみならず、日本の英文学、さらに人文学全体について、
高慢と偏見に満ちた」私見、をお話しされた。
(上のかぎかっこの中は、彼流の謙遜であることは言うまでもない。)


どこまでまじめでどこから冗談なのかわからないような独特のユーモアあふれる講演は、
私の力ではとてもまとめることなどできない。
手元のハンドアウトを見直してみても、三つ並んでいる『エマ』からの引用は、講演を引き受けたことについての「弁明」に使われたのだし、
ベンヤミンディケンズ丸谷才一、中桐雅夫と、およそ何の共通点も見出せないような引用がずらりと並び、
これらがどのような関連で語られたのか、なんだか煙に巻かれたようで、ぼんやりとしている。
さらに、わたしがとったメモは、「高1」「憎む快感」「カバンがあたる」「遊びながら人生勉強」
「居酒屋で出会う等身大」「なりたいのは語り手」――これで、すべてである。


このメモを解説すると、
  高橋さんが初めてオースティンを読んだのは、高校1年のときだった。もちろん、翻訳で、である。
  あまり昔のことなのではっきり覚えていないのだが、その中に、「憎む快感を知った」というような話がでてきた。
  和久少年がその箇所を読んだのは、電車の中だった。
  となりのオジサンのかばんが体にあたり、うっとおしいなと思っていた少年は、
  「3度あたったら憎んでやろう」と心に決め、3度目を心待ちにしたという。
  なるほどこれが「憎む快感」ということなのだと、少年は思った。
  和久少年は何かの目的のためにオースティンを読んだのではない。
  いわば遊びだったわけだけれども、遊びを通して人生勉強をしてしまったというわけである。


  オースティンの小説に出てくる人物は皆、居酒屋でとなりに座ってもこわくない。
  ヒースクリフやエイハブ船長は、ちょっと遠慮したいけれども。
  オースティンの小説の登場人物は、皆、居酒屋で出会う可能性のありそうな、等身大の人物である。
  ただ、彼らのうちのだれかになりたいか、というと、そうでもない。
  高橋さんがなりたいのは、作中に時々出てくる、「語り手」である。


……というような話は、この講演の本筋とはちょっと離れているかもしれない。
(そのわりにはずいぶん長い時間をかけていたようにも思うが……)
ただ、わたしにとってはその箇所が、つまり、学者さんとして、研究成果をふまえた「講演」というより、
普通の読者としての「読書談話」のような話が、強烈に印象に残った、ということなのだと思う。


このようなお話がどういう流れで出てきたかというと、
たしか、
「文学部は危機的状況にある」とか、「韓国の人文学の世界も似たような状況の中で打開策を模索している」とかいう話のあとに、
出てきたように記憶している。
だから、この「読書談話」からわたしが受け取ったメッセージは、
「文学を大衆と切り離してはいけない、大衆(普通の読者)があってこその文学なのだ」
というもので、今日の会合ではまさに正真正銘の「ど素人」の私としては、なんだかちょっと、ほっとしたりもして。


では、文学を大衆から遠ざけたのは、だれなのか。
高橋さんは、研究者自身の排他的な姿勢、専門に固執しがちな研究環境も、(自省もこめて)一因としてあげていた。
わたしは今の仕事柄、とりあげるメディアの問題と教育の問題がどうしても気になる。
漫画、映画、テレビ、ゲーム……文学の主たるメディアである「書物」より、はるかに大衆受けするメディアがたくさんあること。
日本の国語教育、とりわけ義務教育は、長年にわたり「文学偏重」と批判され、
いまや「話すこと」「聞くこと」「書くこと」「説明文」に、教室も教科書も席巻されている感があること。


本を読むことが楽しい。
外国文学っておもしろい。
もっと本格的に読んでみたい。
原語で読んでみたい。
もっと詳しいことを知りたい。
ほかの人がどんなふうに読んだのかを知りたい。
文学研究って、ほんとうはこんなふうな自然な気持ちから生まれるものなんじゃないのかなあ、と、
素朴に思いながら帰路についた。


途中、吉祥寺に寄って、水着を買う。
「太っているのがごまかせるような水着がほしいんですけど」と言って、店員さんの失笑を買う。
一応、「それなりに」満足のいく水着が買えた。
帰宅して実家に電話をする。いつもよりハイテンションな母が出る。
関西に住んでいた兄が、東京に転勤になったからだ。
わたしは今日の会合で、大学時代の恩師に会った話をする。
母にあわせてハイテンションになり、水着を買った話もする。


文学作品を読むわたしと、水着を買うわたし、実家に電話をするわたし。わたしの中ではごくあたりまえに共存している。
「文学部の危機」とか言われても、わたしにはどうすることもできないけれど、
せめて「一読者」として、文学作品を読み続けて、拙いことばではあっても、「これおもしろいよ」と伝え続けていこうと思う。
そして今いる「教育」と「出版」がクロスする現場で何ができるのか、考えてみたいと思う。


先ほど少し触れたけれども、
今日の会合で大学時代の恩師にあった。
「翻訳の仕事はもうやっていないの」と聞かれ、「会社員になってしまったので……」と答えたら、
「翻訳家としてがんばってほしかったのに、残念だなあ」と言われて、ちょっと動揺。