宮田昇『新編戦後翻訳風雲録』

新編 戦後翻訳風雲録 (大人の本棚)

新編 戦後翻訳風雲録 (大人の本棚)

読了。
この本の一部、たとえば田中融二さんの項などは、読むのが今回で三度目となる。
一度目は、「本の雑誌」の連載時。
電車の中で読みながら、泣いた。
「翻訳の匠」と言われた田中さんは、心ない編集者とのやりとりに傷つき、
癌を患ったときに、「翻訳をする意欲がなくなった以上、なにを楽しみに生きていくのか」
と著者に語ったという。
著者は友人の自死を、つとめて感情的にならぬよう、冷静に書こうとしていて、
その必死な感じが逆にほんとうに痛ましく、著者の深い悲しみと喪失感が伝わってくる。
こんな文章を読んで、涙が出てこないのが不思議なくらいだ。


その後、この連載を読むのが楽しみで、「本の雑誌」を毎号購入していた。
だから、この連載が単行本にまとまって、
『戦後「翻訳」風雲録――翻訳者が神々だった時代』が刊行されたとき、
もうほとんど読んじゃってるから、購入しようかな、どうしようかな、と迷った。
でも、書店で本を手にとり、田中さんのところを立ち読みするうちに、
やっぱりこの本は買わなくては、と思い、購入した。
少しずつだけれど、自分の名前で訳書を出すことができるようになったころだった。
この輝かしい「神々」の、はるかはるか下の末席に自分がいるのだということに、
誇りのような、おそれのような、気持ちを抱いた。
鮎川信夫田村隆一など、詩人たちの項を、とくに夢中になって読んだと記憶している。
でも、最後まで読んで、やっぱり圧巻なのは、田中さんのところだと思った。
著者の書きぶりが、この田中さんの項だけ、ちょっとほかと違っていて、
著者はこの項を書くために、「本の雑誌」の連載を引き受け、それを単行本にしたのではないかと思えるほどなのだ。
いや、もしかしたら著者は、同じように書いているつもりなのかもしれないし、
もしかしたらすべて、私の思い込みなのかもしれないけれど……。


それで三回目、この「新編」の出版にあたって、
さてどうしよう、買おうか買うまいか、またしても迷ったのだけれども、
「新たにつけ加えた」と書かれている五人の翻訳者の名前を見て、
おお、やっぱり読まなくては、と思い、購入して読み始めた。
三回目の田中さんの項、やっぱり、涙が出た。この文章は悲しすぎる。


前回読んだときはあまり印象に残らなかったのに、今回はとても気になった、という項もある。
児童文学者、亀山龍樹さんのところ。
名作やエンターテインメントのリライト、ダイジェストが、児童文学者や出版社から過激に目の仇にされた、という話が出てくる。
たしかに、わたしが子どものころ(昭和40年代)には、子ども向けにリライトされた「少年少女世界文学全集」の類が、いくつもあった。
いわゆる「創作児童文学」よりも、たとえば子供向けに物語にリライトされたシェイクスピア作品などのほうが、
はるかにおもしろいと思った。
小学校の教科書の仕事をするようになって、児童文学の翻訳界では「完訳主義」が根強い、という話を聞き、
へえ、そうなんだ、と思った。自分としては、少女のころの読書の楽しみを思い出し、「リライト、ダイジェストの何が悪い」という気持ちがある一方で、
早く大人の読む文庫本を読めるようになりたい、「完全版」を読みたいと思っていたということもあり、
いまやかなり駆逐されてしまったリライト、ダイジェストについて、どう考えればいいのかなあと思っていたところだった。


このことについて、宮田氏は次のように書いている。


   私など、いくら子どもの本であれ、「よい本」「悪い本」に区分けするのなどもってのほかであり、
   文学の好きな子もあればエンターテインメントを好む子もある。
   また、文学以外のものに関心のある子もいる。
   要は活字に親しみ、活字がつくり出す世界を楽しむことが大切だと考えた。
   リライトを読むことで、後に原作を読まなくなると強調されたが、
   なにも読まないままが普通なのだから、入りやすい世界名作のどこが悪いのかという感想さえあった。
   むしろ問題にすべきは、文学性でなく、漫画と競争できる、魅力ある読み物を送り出すことではなかったか。
   また、子どもの理解度を配慮しない直訳調の全訳に、顔をしかめたことも数多くあった。
   子どもの本にとくに要求される翻訳は、眼光紙背に徹した上で、平易な美しい日本語にすることだ。
   (89−90ページ)


児童文学の翻訳はどうあるべきか、というテーマは、最近の私の関心事の一つなので、
大変興味深く読んだ。


明日は野崎歓さんのトークショーの報告を。