内田樹と柴田元幸

今日は英文学会。同じ時間に「行ってみたい」と思ったシンポジウムが三つ重なっていて、
どれに行こうかものすごく迷った。
で、結局、内田樹さんの顔をみてみたいというミーハー気分が勝って、内田さん、柴田さんと若手の研究者2名(都甲さんと大和田さん)のシンポジウムに、
とりあえず行ってみて、最後までいすわってしまった。


やっぱり、内田樹さんという人は、ものすごく頭が切れる人だった。
柴田さんも同様で、シンポジウムというよりは、若手の二人が内田・柴田に教えを乞うているような感じ。
若手二人の発表も、こういう学会の発表にありがちな退屈さはなくて、明晰でわかりやすくて、ハイレベルだったと思うのだけれど、
何といってもやっぱり、内田・柴田は知識の広さ・深さ、ことばをあやつる力、比喩や例示の的確さ、などなど、
どこをとっても格段に上! とくに内田さんは専門外のアメリカ文学のシンポジウムで、あれだけの話ができるのだから、
この人はいったいいくつ引き出しを持っているのだろう、どれだけ奥行きのある知識をためこんでいるのだろう、とため息が出るほどだ。


話題は「アメリカ文学における反復・強迫」というようなことで、
柴田さんはギルモアやマラマッドの一節を引用して(この引用箇所の選び方がまた絶妙!)、
アメリカの理念と現実の落差について話し、
アメリカという国は、常にトラウマ的存在を必要としている」という話をすると、
それを受けるようなかたちで内田さんが、明治人と昭和人の共通点として大きな断絶を経験しているということをあげ、
「断絶以前」と「断絶以後」という内的な葛藤をかかえ、それをねじこんで成長している、という話をしたうえで、
アメリカという国は、常に自ら断絶をつくりだし(パール・ハーバーケネディ暗殺、ベトナム敗戦、9・11)、その断絶・葛藤をバネにして
前進している国なのだ」という話をした。
このあたりはアメリカ文学の専門家でなくても、十分に理解できる内容で、かつ、ほお、と思わせてくれた。


さらに柴田さんが「反復」ということにふれて、
「反省しない、学習しないアメリカ小説のキャラクター」という話をしたことを受け、
内田さんは、「この反省・学習しない、反復強迫アメリカにあって、だれがイノベーションを担っているのかというと、
それは、一握りのユダヤ人なのです」と、冗談めかして自説を展開。


後半は、アメリカ文学における「父殺し≒父への憧憬」、周縁としての「おじさん」の役割、といったことがテーマになり、
話としてはすごく面白かったけれども、なんというか、ノリとしては居酒屋で話しているような、アカデミックなお話とはずいぶん遠い感じだったので、
わたしのような素人にはよかったけれど、専門家の人たち(というか、会場にいた人はほとんどみな、専門家でしょう)は、
ちょっと物足りなかったかもしれないなあと思った。


また、そういうアカデミックかどうかという話とは別に、
内田・柴田はもちろん、若手の二人も、ほんとうに頭がよくて、まさに「才気煥発」、
2時間、まったく退屈しなかったし、このシンポジウムに来てほんとによかったと思ったのだけれども、
うーん、うまく言えないけれども、おとといの大江健三郎の話をきいたときのような、
大きく揺さぶられる感じというか、ずぶずぶとはまっていく感じというか、やむにやまれぬ感じというか、
そういうものはあんまりなかったような気がする。
いちいちそんなのいらないでしょ、と言われるかもしれないけれども、
わたしがなぜ、頼まれもしないのに文学を読むのかというと、やっぱりその「感じ」を求めているからのような気がする。
で、今日の2時間の間に、いちばんその「感じ」がしたのは、軽妙なことばのやりとりの中ではなくて、
柴田さんが引用の文章を音読したときだった。


  ......Shingled, two-story, and weather-worn,
it is located on the far outskirts of a dead-end American town,
pinioned between the night-lights and smoking chimneys of towerig industrial factories.
(Mikal Gilmore, Shot in the Heart)


He went downstairs and had coffee at a dish-laden table in the Automat.
America.
(Bernard Malamud, The Assistant)


くわあ、かっこいい。それにしても、膨大な書物の中から、どうしてこう、その日の話題にぴったりで、
なおかつ、かっこいい文章をひっぱり出せるのだろう。
これがまた英文読むのがすごくうまくて、これまでにも何度か柴田さんの朗読を(英語と日本語と両方)聞いたけれども、
どちらもめちゃくちゃうまい。それは、発音が流暢だとかそういうことじゃなくて(いや、発音がいいのはもちろんなんだけど)、
読み手の存在を忘れさせてくれるような、作品の「声」がそのまま聞こえてくるような読み方で、
上掲の文章も(実際はもっと長い)、柴田さんが読んでいるのを聞いていると、英語力不足の私でも、
描かれている情景の物哀しさをちゃんと受け取ることができるのだ。


帰宅して、昨日買った「小説すばる」を読む。
お目当ては、「総力特集:日本⇔海外 翻訳小説の今」。
北上次郎さんがおすすめしている北方「水滸伝」、やっぱり読まなくちゃいけないなあ。古典新訳文庫のドストエフスキーの次かな。
田口俊樹さんが村上訳「ロング・グッドバイ」について、
「でもね、村上春樹だからできることなんだよ。われわれ翻訳で飯を食っている者にはこんな真似はできないよ。
 下手にみえちゃうだけだもん。(笑)」(136ページ)
「翻訳だけで食ってる人間にはこういう訳し方はできない。下手に見えるから。」(140ページ)
と繰り返し言っているのがおもしろかった。本音、なのだろうな。
「YA小説の『伝道師』が贈る、日本初登場の作家たちの珠玉の三篇」は、個人的にはどれもぴんとこなかった。
しかし、この「伝道師」は、小中学校の国語教科書界ではひっぱりだこの人なのだから、
やっぱりわたしの感覚は、いまの児童文学界のニーズとは相容れないのかもしれないな。
……明日からの会社生活が思いやられます。

小説すばる 2007年 06月号 [雑誌]

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