小鷹信光『翻訳という仕事』

翻訳という仕事 (ちくま文庫)

翻訳という仕事 (ちくま文庫)

昨日の余韻で、小鷹信光『翻訳という仕事』を手にとる。
上の書影は筑摩から出た文庫版だが、わたしの持っているのは、ジャパンタイムスから出た単行本で、
初版が1991年、わたしのは第三刷(1992年)のもの。
わたしはほとんど古本屋で本を買わない(贅沢!)ので、おそらくこの頃に新刊書店で購入したと思われる。


わたしの翻訳学校通学歴は長い。
23歳のとき、商社のOLをしながら、通信教育で1年。
ほぼ毎月、成績優秀者に選ばれたのでその気になって、翌年、
「厳しい」ことで有名な中田耕治先生の通学コースに入った。
授業はとてもおもしろく、先生も魅力的だったのだけれど、
英語力不足、勉強不足で、毎週の課題をまともに提出することができない。
それでも授業にだけは出て、なるべく目立たないようにしていたのだけれど、
ついにあるとき、授業のあとに先生に呼ばれて、「途中まででもよいから、課題を出しなさい」と
「やさしく」注意された。
厳しいと定評のある先生に、「やさしく」注意されたのが情けなくて、
よし、来週はぜったいに課題を出すぞとがんばったのだけれど、
やっぱり授業までに課題を仕上げることができず、恥ずかしながら以後、その翻訳学校には行かなくなってしまった。


その後、語学留学をしたり、プライベートでいろいろあったり、学校の先生になったり、
今思うとものすごく波乱万丈な生活を何年か送った。
この本を購入した1992年は、そんな波乱万丈が、ちょっとひと段落した時期にあたる。
そして1993年春、あきらかにこの本に影響されて、わたしはふたたび、翻訳学校に入学した。
前に行った学校や先生のところには、恥ずかしくてとても足を向けることができず、
寺子屋」をうたう小規模な翻訳学校に入った。ここからまた、波乱万丈がスタートしてしまうことになる。


わたしはめったに本に線を引かない。教科書以外の単行本の類に本に線を引いたりは「絶対に」しないと思っていた。
ところが!である。この手元の『翻訳という仕事』を開いてみると、赤いボールペンであちこちに、線がひいてあるのだ。
翻訳の勉強をはじめたばかりの、二十代の頃のわたしが、何を考えていたかがよくわかる。
(浅はかなところは今もまったく変わらない……)


「この四時間のひと区切りで、400字詰原稿用紙を10枚埋めることができれば……」
「通常の場合は出版社から原書を預けられたときにざっと目を通し(通読)、……」
「原文を読んですっとニュアンスを理解できなかった会話のやりとりや、てこずりそうなパラグラフを、
 再考、三考のために抽出したり、辞書を引くべき単語やフレーズに印をつけ、背景を調べる必要がある箇所も
 あらかじめチェックしておかねばならない。」
「私は一日の仕事量に合わせて、たとえば五ページ分ぐらいの原文について先に徹底的に調べる。」
「机に向かう時間と時間帯をきめ、それに合わせて生活のリズムを整え、一日のノルマを定め、それを消化していく」
「持続力とスピード」「一ヶ月も二ヶ月も休みなくつづく。」
「外国語を理解する資質」「日本語に置き換える感性」
「よき師を得ること」「既刊の翻訳書であり、既成の翻訳家であり、翻訳出版に携わっている編集者」
「……(既刊の翻訳書)に通じていなければならない。まず、熱心な読者でなければならない。」
「自分の好みの訳文を選んでいく」「原稿用紙に筆写」「翻訳のある作品を自分で訳してみる」
「とにかく編集者に読んでもらえるところまで」「何度も根気よく通ってみる」「腕だめしの仕事がもらえる」
「編集者と知り合い、実力、人柄とも気に入ってもらって、順調にいけば半年か一年後に、初めての翻訳が活字になって雑誌に載る」
「やがて実力と熱意が評価されて、中編を……」「平均点以上の仕事をつづけ、初めて長編の仕事の依頼がくる」
「四年目でやっと五、六冊の翻訳キャリア」
「この初めの年に稼いだ総額は約90万円。」


以上だ。これで、赤線を引いた箇所は、すべてである。小鷹さんが知ったら、がっかりするかもしれない。
わたしはこの小鷹さんの本を、完全にハウツー本として読んでいたらしい。どんなふうに勉強をし、どんなふうに仕事を得るのか。
それで生活をしていけるのか。
公立中学の教師という安定した職業をすてて、翻訳の勉強をはじめてしまった以上、
なんとしても翻訳で食べていけるようにならなくてはいけない。
それから10年ほど、わたしは翻訳学校に通いながら、この小鷹さんの教えどおりに、地道に翻訳の勉強を続け、仕事を続けた。
雑誌や短編、下訳、共訳の仕事を経て、何冊か、単行本を出せるようになった。
ちょうど小鷹さんの言うとおり、仕事をうけはじめて「四年目でやっと五、六冊の翻訳キャリア」というところまできた。
もちろん収入は雀の涙なので、編集プロダクションでアルバイトをして、何とか生活していた。


4年前の春、大きな決断をした。出版社に就職したのだ。
安定した収入はもちろん魅力だったけれども、もうひとつ、大きな理由に、
翻訳という他人と接することの少ない仕事が、ほんとうに自分に向いているのだろうか、と迷ったということがある。
4年たってみて、収入が安定するということのありがたさは身にしみて感じている。
仕事として考えた場合、フリーの翻訳者と、サラリーマン編集者と、どちらが向いているのかということについては、
うーん、まだよくわからない。
翻訳学校の先生の、「3年だけがんばってみたら」という期限はとうに過ぎた。


……などと個人的な感慨をずらずらと書いていて、ふと、
「第19回朝日新人文学賞」応募規定に出ていた、審査員斎藤美奈子のことばが頭をよぎった。
  

  ……それでも書きたい人、最低限、自分探しのために小説を書くのはやめてください。
  自分が関心があるものに他人も関心があると思ったら大間違い。
  あなたになんか誰も興味を持っていないんだ。
  そう認識するところからはじめていただきたいと思います。
  (「小説トリッパー2007春号」399ページ)


うう、手厳しい。
そういえばこの「小説トリッパー」、小谷野敦「リアリズムの擁護」と、
阿川×佐野対談「気がつけば石井桃子だった」が読みたくて買ったのだけれど、
どちらも期待にたがわず、面白かった。
小谷野さんが、
  私が高校生から大学生の頃、作家になりたくて、しかし一番困ったのは、
  ファンタジーやSFでない小説の「筋」が思いつかない、あるいは書いても不自然になるということだった。
  (69ページ)
と書いているところや、
佐野さんが、石井桃子さんの「ノンちゃん雲に乗る」について、
  お兄ちゃんとお母さんがいなくなっちゃって、
  自分だけおいていかれちゃってワアワア泣くところから始まるの。
  もう自分がノンちゃんにパッとなれた。
  (71ページ)
と語っているところとかを読むと、
手をあげて、「はいっ、はいっ、一緒です!」と言いたくなった。
結局のところ、本を読むことが好きだから、本の周辺でうろうろと仕事をして、
何とか生活していければ、まあ、いいんじゃないかなあという気もする。