岡崎武志『読書の腕前』

読了。

読書の腕前 (光文社新書)

読書の腕前 (光文社新書)

書かれていることに100パーセント同感してしまい、逆に手ごたえがないくらいだ。
ただ、実際の行動はちょっと異なる。
わたしは本を集めることには、あまり関心がない。
だから、あまり古本屋には行かなくて、もっぱら新刊を買う。
同居人の書棚がまるで古本屋なので、「隠れた名作」のようなものを読みたいときには、
自宅にいながらにして古本屋に出かけていった気分を味わえる。
その点を別にすれば、もう、まったくおんなじ!!
読書に明け暮れた少年(少女)時代、「現国」だけはずばぬけて成績がよかった高校時代、
そして、「いつだって、『もっと本を読もう』、読みたいと考えている」(7ページ)、現在。


第六章の章タイトルは、「国語の教科書は文学のアンソロジー」。
作家や文学関係者が国語教科書について書いたものは、たいてい「酷評」である。
「教科書は退屈で、教育的で、学校時代は国語が嫌いだった」という論調が主流。
でもわたしは、岡崎さんと同様、国語の教科書が大好きだった。
とくに高校に入って「現国」の教科書を渡されると、すぐに全部読んでしまって、
「授業ではどれをやるのかなあ」と楽しみにしていた。
岡崎さんと同じように、わたしは当時、国語の教科書のことを、
「文学のアンソロジー」だと思っていた。
評論も、当時は文学者の書いたエッセイ風のものが多かったような気がする。
小説も評論も詩も、みんなひっくるめて「文学のアンソロジー」だと思って、
自分の知らない名前の著者が続々と登場し、
世界が広がっていく予感に、文字通りどきどきわくわくしていた。


偶然だけれど、昨日、職場の上司から、
「高校の現代文の教科書を、あなたは文学のアンソロジーだとでも思っているのか」
と詰問され、「……はい。」と答えてあきれられた(そうじゃないらしいです、岡崎さん)。
「高校の国語教師が、みんなあなたのように文学好きだと思うな」
とも言われた。そうなのかなあ……かなりへこんだ。やっぱりこの仕事、向いてないのかな。


でも、岡崎さんの『読書の腕前』には、たとえば
   成績がパッとせず、スポーツも苦手な少年にとって、本とのつきあいに消極的な側面があったことは否定できない。
   それが、現国の教科書を通して多くの作家と出会うことで、読書の世界が広がっていった。
   文学について語り合う友人も先輩もいない私にとって、
   現国の教科書は、読書の原野を進んでいくための絶好の案内人だったのだ。(220ページ)
なんていうことも書かれていて、励まされたりもするのだった。


ちなみに、私は岡崎さんの「好みのタイプ」の条件に、ばっちりあてはまっている。
何しろ、ある詩人を好きだというだけで、「その人の欠点をすべて帳消し」にしていただけるらしい。
で、わたしはその詩人、かなり、好きなので(その詩人の名前は、290ページに)。