斎藤兆史・野崎歓『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』

英語のたくらみ、フランス語のたわむれ

英語のたくらみ、フランス語のたわむれ

1週間ほど前に読了。
予想通り、ものすごくおもしろかったし、得るものも多かった。
ということは、以前に野崎歓さんが講義であげていた10冊は、
翻訳や外国文学について知るうえで、すばらしく意味のある本ばかり、ということだ。


東大の先生とかいうと、なんとなく恐れ多くて敬遠してしまうのだけれど、
このお二人は、年も若くて肩の力が抜けていて、
でも、とにかく「英語」が/「文学」が好きで好きでたまらないのだということが、
びんびん伝わってくる本だった。


全体的な感想としては、「うーん、わたしはどう考えても野崎派だ」ということ。
これは、斎藤さんと野崎さんでどちらが好みのタイプか、ということではなく
(そういう意味では二人ともバッチリわたしの好みのタイプなのでした)、
英語という言語そのものが好きで、そこを入り口として英文学に親しんでいった斎藤さんと、
外国文学の魅力を翻訳で知り、原文で読みたくてフランス語を学んだ野崎さん、という対比のモンダイ。


翻訳についてのスタンスも、根本的な思いは同じなのだろうけれども、微妙に違っていて、
うーん、あんまりパキッと分けてしまってはいけないと思うけれど、あえて印象で分けると、
理性の斎藤さんvs.感性の野崎さん、大人の斎藤さんvs.子どもの(ゴメンナサイ)野崎さん、って感じかな。


たとえば、翻訳について、野崎さんはこんなことを言っている。
   

   翻訳によって何かが始まるというか、翻訳が文化の扉を開いていくということが
   すごく重要な問題としてあるはずなんです。
   原書と訳書を並べて、ここが違う、あそこが違うなどというのは
   まったく平板な、退屈な話であって、
   未来に伸びていく、歴史をつくっていく営みという次元を見すえなければならない。
   翻訳を考えるときはまずそれくらい大ぶろしきを広げてかまわないんだろうと思います。
   (103ページ)


それから、野崎さんの「同居人」さんの翻訳家のイメージは、
「日のあたらないところでわらじを編んでいるわらじ編み」なのだと紹介したあとで、
こんなことも言っている。
   

   僕の場合は全然違っていて、はるかにポジティブなイメージなんですよ。
   僕は「旅人」という感じなんですね。
   一冊の本ごとに新しい旅に出る。その見聞録が翻訳という感じだな。
   テクストとはまさに異国の地であって、そこを自分で旅していく。
   旅行者によって印象は異なるだろうから、その記録も異なるのはあたりまえであって、
   その結果として自分なりの翻訳ができあがるというわけです。
   (133ページ)


ほお、ほお、なるほど。と思って読んでいくと、すかさず斎藤さんが、理性的なコメントを。


   野崎さんくらいの翻訳家がそういうことを言うのは非常に説得力があるけれども、
   その発想は一歩間違うと翻訳というのは芸術である、自分の創造である、
   自由なかたちでテクストを解体してつくり直していいんだという、
   下手な翻訳家の言い訳みたいなことになりえますよね。
   (134ページ)


ほええ、ごめんなさい。やはり「英語達人塾」の塾長さんは、キビシイのでした。
でも、読み終わったときには、もう一度英語を丁寧に読む勉強をしてみようかしらと、
40過ぎのサラリーマンに考えさせるだけの力のある、中身の濃い対談だった。


   業績が数値化できるような学問のあり方からはこぼれおちる、しかし捨てるには惜しい美味なるもの、
   それを一手に引き受けられるのはわれわれなのだから。
   人はだれしも、精神の愉悦なしに生きられるはずはないのだし、
   愉しみ方を教示するすべをもった人間が真に無用になることもありえない。
   「語学・翻訳・文学」を基盤にすえて、世の潮流に対し「たくらみ」をめぐらしつつ、
   しぶとく「たわむれ」続けようではないか。(あとがきより)


はい、ついていきます〜〜!!


昨日買った岡崎武志『読書の腕前』も、あと少しで読み終わる。
ちなみに昨日はもう一冊、田中貴子『検定絶対不合格教科書 古文』も購入。
今日は古典新訳文庫の新刊、マン『ヴェネツィアに死す』とトロツキーレーニン』、
それに、NHKテレビテキスト「きょうの料理」4月号を購入。
料理本を買ってばかりいないで、実際に料理しろよ!っていう声が聞こえてくるぅぅぅ。