年末

年末ということで、毎日のように忘年会や集まりがあり、ほとんど読書が進まない。
ブログの更新も滞っている。

月曜日、翻訳関係忘年会第2弾。朝5時帰還。こんなこと、昔はよくあったけれど、
最近は年に1度あるかないか。はしゃぎすぎて喉が痛い。
火曜日、ぼーっとした頭で出勤。図書館で小学校4年生の説明文の題材をさがす。
夕方、司馬遷について、高校教科書の指導書原稿を書く。何をやっているのか、よくわからないまま、1日が過ぎる。
水曜日、会社の忘年会。2次会はカラオケ。歌うのは苦手だけれど、人が歌っているのを聞くのは楽しい。
木曜日、「知人」のお宅におじゃまする。小学校4年生のぼうやを含め、わたしが最も英語力がない。
賢い人たちといっしょにいると、自分まで賢くなったような錯覚にとらわれ、快感。
あんまり楽しくて時間がたつのを忘れ、11時近くまでおじゃましてしまった。
酔いにまかせて歩いて帰宅。
金曜日、またしても小学生の説明文さがしと漢文の指導書の執筆。
土曜日、今週はどうしてもレーニン帝国主義論』を読まなくてはいけないことを思い出す。
が、近所のスパに行くのにレーニンを持っていく気になれず、多和田葉子の『エクソフォニー』を。
これがものすごく面白い。読みたい、読みたい。でも、レーニンが。つらい。
日曜日、読まなくてはいけない本がものすごくあるというのに、同居人が本屋に行きたがるので仕方なくパルコの本屋へ。
やっぱり大きい書店は楽しい。あっという間に時間が経つ。
岩波新書の『翻訳家の仕事』ほか3冊購入。
『言いまつがい』がレーニンより先に読め、とわたしを呼んでいる。


「パルコの本屋に行くと、今でもひょっこりMさんに会うような気がする」と同居人が言う。
今年秋に急逝したMさんに、パルコの本屋でばったり会ったのは、1年くらい前だっただろうか。
ちょうど同居人と二人で人文書の平台を見て、Mさんの訳書の話をし、「あー、(難しそうで)わたしにはとても読めそうにないな〜」
などと話した直後だったと記憶している。
Mさんもパートナーの方といっしょにいて、4人でほんの5分ほど、立ち話をした。それだけのことである。
でも、同居人にとってはもちろん、わたしにとっても、パルコの本屋はいつも、Mさんのことを思い出す場所になった。
Mさんの訳書は、今もパルコの本屋の棚に並んでいる。


翻訳家の矢野浩三郎先生が亡くなったのも、今年のことだ。
訳書もエピソードも、尽きることがないほど豊富にある方だけれど、
わたしにとって最も心に残っている矢野先生の翻訳作品は、ケン・フォレットの『大聖堂』だ。
翻訳学校に通いはじめて1年くらいたったころ、翻訳で食べていけるようになるには、
ミステリかロマンスかノンフィクション、どれかひとつ得意分野をもたなくてはならない、という強迫観念にかられた。
今思うとなぜそんなふうに思ったのかよくわからないのだが、
たぶん、雑誌などで仕入れた情報を自分の中でねじまげて解釈してしまったのだと思う。
ともかく、そう思い込んでしまったわたしは、「今日からミステリおたくになる!」と友達に宣言して笑われたり、
医学翻訳の勉強をはじめてみたり、あれこれと手をだしては挫折していた。
そんなときに、学校の受付をしていた女性が、「傑作よ。矢野先生の翻訳もすばらしいし、内容もものすごくおもしろい」と言ってすすめてくれたのが、
『大聖堂』上・中・下、全3巻だった。
長いなあ、と思ったけれど、元編集者のこの女性の読書量は相当なものなので、
この人がすすめるのだから、と思い、読み始めた。
面白くて、あっという間に読み終えた。よく覚えていないが、勤めていたとしたら間違いなく、仕事を休んでいるはずだ。
読み終えたときに、ああ、翻訳で食べていけるかどうかなんて、考えるのはやめよう、と思った。
食べていけなくてもいい。自分が心から面白い、素晴らしい、と思えるものを、読者に届けることができれば、もう、それでいいや、と思った。
矢野先生には、この話はしていない。毎年、年賀状は出していたけれど、直接お話をする機会はほとんどなかった。


昨年末に、この『大聖堂』がソフトバンクから復刊(?)したのを見て、
ああ、今度矢野先生にお会いしたら、この作品への自分の思い入れをお話しよう、と思った。
結局、お話できないまま、矢野先生は逝ってしまった。