夏石鈴子『夏の力道山』

夏の力道山

夏の力道山

読了。
以前、「あなたの本の読み方には2種類ある」と指摘されたことがある。
ひとつは翻訳ものの純文学などを読むときの読み方。
ややお勉強モードで、背伸びをして、読んでいる。
それなりに苦労するし、時間もかかるけれど、読了後の充実感は大きい。


もうひとつの読み方は、「友達からの手紙を読んでいるみたいに読む」。
ものすごいスピード、集中力で、登場人物と会話をしているみたいに読んでいる。
山本文緒とか江国香織とかを読むときのモード。
さんざん楽しんだあげくに、「あたしでも書けそう」などと不遜な感想をもったりする。


『夏の力道山』は、この後者のタイプの本の典型だった。
読んでいる間、楽しくてたまらない。
電車の中で薄笑いを浮かべながら読書する中年女は、相当不気味だったに違いない。
ストーリーらしきものはなく、五十嵐豊子さんという41歳の女性の1日をただ描写している小説で、
わたしは個人的に、この五十嵐豊子さんという「友達」にとても励まされたのだけれど、
「こういう女嫌い」という人は、男女問わず、結構な数、いるのだろうなあと思った。


五十嵐豊子さんは、バリバリ働いているけれど、いわゆるフェミニストではないし、
かといって、古風な男性が夢見るような「楚々とした」女性でもない。
簡単に言ってしまうと、この女主人公は、自分が41歳で、体力にまかせて猛烈に働いていて、
下着姿で腰に手をやると「力道山に似てるね」と夫に言われるような体型である、という現状を、
全面的に受け入れている人なのだ。
そして、理屈に合わないと思うことを受け入れる根拠は、結局、「愛」だ、という。


この感想を書いていて、突然思い出した。
以前、会社の同僚(女性)に、「あなたは社会とうまく折り合ってきた人で、
あなたのそういうところがとても嫌だ」と、はっきり言われたことがある。
そうかなあ、「折り合う」ってどういうことなんだろう、かなりマイペースだし、
自己主張したいときはちゃんとしてきたつもりだけどなあ、なんて思っていた。
でも、たしかにわたしの毎日の生活を送る上での判断基準は、
「理にかなっているかどうか」ではなくて、「愛があるかどうか」で、
そのときの生活や人間関係を守りたいと思ったら、
理にかなっていなくても、へらへらと折り合ってきたような気もする。


この本の作者は三省堂の「新明解国語辞典」の用例に注目した本家本元のような人で、
そのことからも想像できるように、とにかく細かいところへの目のつけどころがすごい。
最後まで楽しく読んで、またしても「あたしでも書けそう」などと不遜な感想を持つのだけれど、
現実にはこの目のつけどころ、この文章のテンポ、素人にはどうがんばっても真似のできない、
「プロのお仕事」なのだった。