テヘランでロリータを読む

テヘランでロリータを読む

テヘランでロリータを読む

読了。
「なぜ文学(フィクション)を読むのか」という素朴な問いに、
イスラーム革命/イラン・イラク戦争下という特殊な状況を例にして、
ある答えを出している。
最後まで読み通すと、この「特殊な状況」はあくまで「例」であって、
「PISA型リテラシーの獲得に躍起になっている国語教育界」とか、
「文学や文学に関する本は売れないので出さない出版界」とか、
どんなふうにでも、今自分が生きている(直面している)世界の現実に置き換えて読める。


イスラーム革命直後の大学のキャンパスで、著者たちは「グレート・ギャツビー」を論じる。
外ではラウドスピーカーが、「アメリカに死を!」と繰り返す。
このような世界で、「ギャツビー」を読み、愛について考えることに何の意味があるのか。
ストレートに問いかけてくる学生もいる。
その日の授業の最後を、著者は次のようなことばでしめくくる。  
  
  
  その世界に入りこまなければ、
  登場人物とともに固唾をのんで、彼らの運命に巻きこまれなければ、
  感情移入はできません。
  感情移入こそが小説の本質なのです。
  小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。
  さあ息を吸って。(p.156)


わたしは単なる本好きで、難しい文芸批評の理論やことばはまるで知らない。
「感情移入こそが小節の本質なのです」なんていうのは、全然だめな考え方なのかもしれない。
でも、自分自身がなぜ小説を読むのか、幸福なときも不幸なときも、
忙しいときも暇なときも、なぜ小説を読み続けているのか、
どんなふうに小説を読んでいるのか、と考えると、
「感情移入」して登場人物の運命に巻きこまれ、
それが自分でも気づかないうちに自分の血肉になって、
現実の人生の中のあちこちで、「あ……」というような発見とともによみがえり、
別にだれに報告するでも発表するでもなく、
「なるほど、こういうことか」という体験が、いつまでもいつまでも続く。
そんな実感が漠然とあるものだから、だれに強制されるでも、すぐにお金が儲かるわけでもないのに、
小説を読み続けているように思うのだ。


教育関係の人たちと話をしているとよく、
「それで、この作品から何を学ぶんですか」「どういう力がつくんですか」
と言われる。
彼らだってもちろん、この問いの胡散臭さに気づいていないはずはない。
彼らにとっての現実の世界(たとえば教育行政)に適応していくためには、
こうした問いからのがれることはできないというのは、わかるような気がする。
それでもやはり、このことばを発した人に、
本書の中盤で「グレート・ギャッツビー」を読むことをめぐりひとりの女生徒が語ったことばを、
なげかけてみたくなる。


  私がこの本を読んで学んだのは、不倫はいいことだとか、
  みんないかさま師になるべきだなどということではありません。
  スタインベックを読んだ人が全員ストライキをしたり
  西部に向かったりしましたか?
  メルヴィルを読んだからといって鯨をとりに行きましたか?
  人生はもう少し複雑なものではないでしょうか?(p.190)


「わかりやすい」ことや、「すぐに役立つ」ことも、もちろん意味があるのだろうけれど、
彼女の言う「人生はもう少し複雑なもの」ということを、
文学(フィクション)は教えてくれる。
発達段階とつけたい力のマトリクスからは絶対に出てくることはない、
でも、子どもが大人になっていく過程でどうしても触れてほしい要素を、
文学は担っているような気がする。


という具合に、わたしは何を読んでも、自分の現実の生活や人生にひきつけて読んでしまうので、
このブログはこの素晴らしい作品の本当のよさを、きちんと伝えてはいないかもしれない。
たとえば、この作品は回想記のような形をとっていて、話はやたらあちこちするのだけれど、
実は、「ロリータ」からはじまり「オースティン」で終わる四部の構成は、
きわめて周到に計算されて配置されているようで、この著者の筆力は相当なものという気がする。
また、「衝撃の回想録」という帯の文句に間違いはなく、たしかに今まで知らなかった衝撃的な事実が書かれているのだが、
著者の淡々とした、深みのある、それでいて毅然とした語りの文体は、
告白本・暴露本的な品のなさを一切寄せつけない。
これは、翻訳者市川恵里さんの筆力も、一役買っているのかもしれない。


この1週間ほどは、自宅で本書を、通勤の車中では「イギリス的人生」を読む日々。
昨日は気持ちのいいお天気に誘われて、自宅から吉祥寺まで歩く。
つぶれたと思っていた洋古書店が、実は隣のビルに移って広くなっていることを知り、早速行ってみた。
「イギリス的人生」の影響を受けて、ドラブル「碾臼」の原書を購入。
もちろん小野寺健さんの翻訳書は自宅にあるのだけれど、洋書も時々読むようにしないと、読めなくなりそうなので。
考えてみたらもう1年近く、原書を読んでいないような気が。
リーディングをやっていた頃は、月3〜4冊のペースで読んでいたのになあ。


ここのところ、いろいろなブログを読むことに熱中しすぎて、自宅で本を読む時間が激減。
充実したブログの存在を知れば知るほど、自分のブログを書くのが意味がないような気もしてきて、
ちょっと更新をさぼりぎみ。
でも、書き始めた当初考えたとおり、あまり気負わず、とりあえず書き続けることを第一義にして、
のんびりと続けていこうと思う。