ことばの重み/亀山郁夫さんの回

このところ、大臣の「問題発言」をめぐって、組合ルートで毎日のようにメールが入ってくる。
「失言でした、ごめんなさい」ではすまない、ことばの重みを、大臣はひしひしと感じているだろう。
この件については、出産経験のない40代女性として、「そっとしておいてほしい」というのが正直なところ。
自分の親を筆頭に、世間様に対しては、なんとなく後ろめたいような気持ちがしている。
だから、「辞任を要求する」という強い調子のメールを読んでも、
「あの発言のどこが悪い」と開き直る強気な男性評論家のコメントを聞いても、
どちらに対してもびびってしまうというか、嵐が過ぎ去るのをじっと待ちたい、というような気分。


ことばというのは常に、ある状況、文脈の中で発せられるものだから、
今回の大臣の発言だって、時と場合が違っていれば、こんなに大騒ぎにはならなかったはずだ。
それで思い出したのが、妹が癌で闘病中に、看護婦さんから言われた「ことば」だ。
妹は当時、家庭裁判所調査官という仕事をしていた。
癌が見つかって入院することになったとき、妹は涙ひとつこぼすことなく、後輩にきっちりと引継ぎをして、
「戻ってくる」という強い意志のもと、休職したそうだ。
入院してまもなく、看護婦さんが何気なく、
「○○さんは、家庭裁判所調査官だったんですよね」と言ったそうだ。
妹は激怒した。その看護婦さんを、担当からはずしてくれとごねたらしい。
その後半年ほどの闘病生活の間で、激しく感情的になった妹をみたのは、このときだけだった。
妹は泣きながらわたしに訴えた。
「ことばの仕事をしているお姉ちゃんならわかるでしょ、
だった、って言ったんだよ。過去形で言ったんだよ。
看護婦さんなのに、わたしの仕事のことを、だった、って過去形で言ったんだよ」


この看護婦さんを、責める気持ちはない。
ただ、この「過去形」に激しく反応した妹の、仕事に対する、生きていくことに対する執念を思い、
ひたすら不憫で、哀しい。
そしてあらためて、ことばというのは文脈の中に存在するものだということをかみしめる。


ことばの重みを感じるのは、このような悲しい例ばかりではない。
昨日は、早稲田大学エクステンションセンターの講座「古典の愉しみ、新訳の目論み」の第3回、
講師はロシア文学亀山郁夫先生だった。
題材は、亀山さんが現在、翻訳中のドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』。

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

とにかく話がおもしろくて、あっという間に時間がすぎ、結局、30分ほど延長したのだけれど、
ほとんど全員が残って、最後まで話を聞いていた。
何しろ冒頭の1文、
  「わたしの主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている。」
について、たっぷり30分は話したと思う。
既訳について、原文について、編集者とのやりとり、学生たちとのやりとり。
この、一見何の変哲もない、単純な1行のために、亀山さんがどれほどの時間をかけ、知恵をしぼり、逡巡し、書き直したか。
なぜ、このことばを、この文体を選ぶのか。翻訳は、ことばの重みを意識しつつ、大小さまざまな決断を積み重ねていく作業だ。
この作業の苦しさを、亀山さんは楽しそうに、うれしそうに、語った。
  「1巻は3回、2巻は2回、読みこんでください。
   そうすれば3巻はすらすら読めます。
   そうしておけば4巻、4巻の第11編、ここが理解できます。
   そうか! そうだったのか! という体験ができます。
   そのためにも、1巻は最低3回、読み返すことをすすめます」
とのこと。ひえええ。さらに、
  「映画はみないでください。小説をほんとうに楽しみたいのなら、映画をみてはだめです。
   そのかわり、『カラマーゾフの兄弟』以外の、ロシア映画をたくさん観るといいですよ。
   たくさん観て、自分なりにキャストを考えるんです」
なるほど。
こんな調子で、生徒がどれくらい『カラマーゾフの兄弟』について知識があるか、なんてことには、まあ、お構いなしで、
ただもう、この作品に対するあふれるような恋情を、切々と語るという印象の講義だった。
この感じ、なんとなくおぼえがある。
そう。アメリカ文学者の若島正さん。若島さんがナボコフについて語るときと、そっくりなのだった。


あのね、世の中の人はあなたたちのように、ドストエフスキーナボコフ)のことをいちばんに考えて生きているわけじゃないのよ。
今日、講義を聞いているわたしたちは、明日は会社に行かなくちゃいけないかもしれないし、
子どものお弁当をつくらなくちゃいけないかもしれないし、
おばあちゃんを病院に連れてかなくちゃいけないかもしれないし、
大きな試験があるかもしれないし、
借金を返さなくちゃいけないかもしれないの。
そんなときに、ねえ、なんで、「スメルジャコフはなぜイワンにチェルマシニャーに行けと言ったか」とか、
「スメルジャコフの一人称は、わたしかぼくか」とか、そんなどうでもいいようなことを考えるわけ?
それが、いったい、何の役に立つの?


……という問いが、次の項目のお題。
とりあえず、昨日は亀山さんのお話をきくことができて、私は幸せです。

教育をめぐって

内田樹下流志向』読了。

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

わたしが言いたかったことが、全部書いてあった。
前の項目の最後に書いた問い、「それが、いったい、何の役に立つの?」
この問いこそが、教育をだめにしている、というオハナシ。


引用したいところだらけで、はじめるときりがないので、
「学ぶ」ということについて、直接的に言及しているところを二箇所、引用する。
  

  学びというのは、自分が学んだことの意味や価値が理解できるような主体を構築してゆく生成的な行程です。
  学び終えた時点ではじめて自分が何を学んだのかを理解するレベルに達する。そういうダイナミックなプロセスです。
  学ぶ前と学び終えた後では別人になっているというのでなければ、学ぶ意味がない。(149〜150ページ)


  ……、自分自身の価値判断を「かっこに入れる」ということが実は学びの本質だからです。(151ページ)


すぐに役立つこと、現在の自分が「わかる」こと以外は、知りたくない、やりたくない。
今の子どもたちが(というより、日本の社会全体が)そういう方向に向かっているということは、
残念ながら認めざるを得ないようだ。そしてそうした社会のニーズにこたえるべく、
教育は、「すぐに役立つ」こと、「成果が目に見える」こと、「わかりやすく提示する」ことに、躍起になっているように見える。


「この作品を読むことで、どういう力がつくんですか。」
わたしの今の職場では、思っていた以上に頻繁に、この問いかけがなされる。
たしかに、小説や詩などの文学作品を読むことが、人生において「すぐに役立つ」とは思えない。
たとえば「登場人物の心の移り変わりを読み取る」という力をつけたいと考えたとして、
「はい! あなたは、登場人物の心の移り変わりを読み取れるようになりました!」などという瞬間がおとずれるはずもない。
「わかりやすく」を追求していけば、行間を読むとか、含蓄を味わうなどということはなくなって、
「わたしは悲しかった」「彼はうれしかった」式の、ストレートな文章ばかりがはびこるようになる。


……でも、そう悲観したものでもない。
名古屋の公立高校で国語を教えるY先生が、「教室で小説を読む」ということについて書いている文章があって、
「指導者の姿勢としては、小説をむしろ要約不可能な何かとして感得させるような方向に導いてもらいたいと考える」と書いている。 
この先生が作成したテスト問題を見た。「つけたい力」や「評価規準」はどこにも書いていないけれども、
先生が何をしたいのか、子どもたちと何を語りたいのか、浮かび上がってくるような気がした。
形式はごくありふれた、普通のペーパーテストだ。
でも、選択肢問題の選択肢の立て方、記述式問題の問いの立て方など、
ちょっとしたことばの使い方、選び方が、傑出している。
何気なく作っているけれど、これははっきりと、「ことばの重み」を意識している人の仕事だ。
ことばや文学を学ぶこと、教えることを、あきらめちゃいけないなと、思い直してみたりして。