書き方も忘れてしまった

もう長いことブログを書いていないので、書き方を忘れてしまった。新規書き込みはどこを押すんだっけ?
改行の仕方も文体も思い出せないけど、とにかく何か書いてみようと思う。というか、このままだとほんとうに長めの文章が書けなくなってしまう気がしてきたので、無理やりでも書き出してみることにする。


この連休はのんびり過ごした。4月に1冊、6月に1冊、7月に1冊、単行本を出して、ここのところ仕事は少し落ち着いている。大型本の新企画が3本通ったので、2年後くらいまで仕事が途切れることはなさそうだし、進行中の企画が4、5冊あるので、まあ、ぼんやり過ごす、というわけにはいかないけれど。


単行本の仕事をするようになって3年半ほど経ち、なんとなくサイクルというか、流れみたいなのがわかってきた。年間何冊くらいのペースが普通なのかはわからないけど、以前のように身も心もぼろぼろ、というところまで追い込まれることはなく、コンスタントに忙しく過ごしている。仕事の大半は編集の実作業だけれど、校了の間隙を縫って新企画を考えたり、販売部と協力して新刊の宣伝・営業を考えたりするのも、大変だけどとても楽しい。


そんなわけで、ちょっとひと段落の7月は、既刊本の宣伝や新企画の構想、それに個人的な趣味の会も含め、あちこちのイベントに顔を出している。土曜日は「はじめての海外文学」という書店のフェアイベントの関連企画「はじめての読書会」というのに行ってみた。課題図書は短編の名手O・ヘンリーの『賢者の贈り物」。「読書会」ではあるけれど、「発言はしなくてもいい」というのがありがたく、堂々と「聞くだけ参加」とあいなった。


全員が「聞くだけ」だったらもちろん読書会にならないので、会の前半は翻訳家や書店員、編集者などによる「モデル読書会」。「賢者の贈り物」と言えば貧しく若い夫婦の美しい愛の物語、と当然のように思っていた私には、到底信じられないような深読みが次々に披露され、えええええー?となったところへ、翻訳家の相良さんが、私の思いを代弁するような意見をゆったりと柔らかにお話しされ、心の中でそうそうそう!とさけぶ私。その心の声が聞こえたのか、司会の倉本さんが、「相良さんのように甘い愛の物語として読んだ方、会場にいらっしゃいます?」と絶妙の質問をされたので、はいはいはいっと思い切り手をあげた。幸い、フロアからは3分の1くらいの方が手をあげていて、よかった、私(と相良さん)が変わってるわけじゃないのね〜と安心した次第。


会場のGlocal Cafe というのがとても素敵なお店で、コーヒーも美味しくて、そんな中での「読書会」は、だれの読みが優れてるとか、だれの読みが正しいとか、そんな雰囲気はまったくなかった。ただ本の好きな人たちが集まってそれぞれの読み方を話していると、自然にその人の人となりとか、それまでの人生とかが、なんとなくぽろっと出ちゃうみたいなところがあって、なんかそういうのがとてもいいなあ、と思ったのだった。司会の倉本さんは書評家なので、読み手としては「プロ」ではあるけれど、そのほかの登壇者はいわゆる文学研究者ではなく、さまざまな形で本にかかわる「プロ」ではあるけれど、読み手としてはあくまで、フロアの我々と同じ素人。そのスタンスも、「はじめての海外文学」「はじめての読書会」「賢者の贈り物」というイベントの趣旨と合致して、納得、満足の内容だった。


そして今日は一転、プロの「文学研究者」と「職業作家」によるシンポジウム、「吉田健一と文学の未来」を聴講。このメンバーで、このテーマで、しかも会場は駒場(家から近い)、行くしかないでしょーと同居人を誘って二人で出かけた。難しすぎて眠くなっちゃうかも、と思っていたけど、全然そんなことはなくて、3人のシンポジストの役割分担みたいなのがとてもうまくいっていて、だれの話が面白かった、というんじゃなくて、3人のお話全体で、吉田健一のことがだんだんわかってくる、という感じのシンポジウムだった。吉田健一の大ファンや研究者にとってはどうだったかわからないけれど、私にとってはとても刺激的で、少なくとも帰宅してから「美しき積読本」の山から池澤文学全集の「吉田健一」の巻を抜き出して、このブログを書き終えたら読もう、と決心させるくらいには、ぐっと心をひきつけられるイベントだった(…ああ、でももう眠いから今日はこのまま寝ちゃうかも…)