眠れないので

先ほどとても大切な友人の訃報がツイッターで流れてきて、とても信じられなくて連絡のありそうな人に確認したら、やはり本当だとのこと。闘病していたのは知っていたけれど、私と同い年だし、1年前にはイベントにも出て、「見に来てね」と元気なメールをもらったので、快復しているのだと思っていた。「やっと翻訳書を担当できるようになったから、一緒にお仕事をするのを楽しみにしています」と書いたわたしの年賀状を見ることなく、大晦日の朝、彼女は逝ってしまった。


出会ったのはいつのことか、よく覚えていない。たぶん、20年くらい前だと思う。同い年、B型同士で、不思議に気が合った。30代前半はふたりとも駆け出しだったけれど、いつだって彼女が少しリードしていて、その差は年々広がった。でも、売れっ子になったからといって彼女は変わることなく、時折会っては翻訳の話や文学の話を、長い時間したものだった。いつだったか私が、文学ものの翻訳をやりたいけれど、東大英文科の大学院の人とかにかなわない気がする、と弱音を吐いたことがあって、そのとき彼女はかなり強い口調でそれは甘えだと私を叱った。「専業翻訳者には文学研究者にない良さがあるはず。今まで自分がやってきたことを信じなくてどうする」という言葉の裏には、彼女自身の誇りと不安がこめられているような気がした。「人生80年と仮定して、この先何冊翻訳できるか」と話しあったこともあった。2年前に会ったとき、「まだ訳したい本がいっぱいある」と言っていた。病気が見つかってからも、「ぜったい元気になるんだー」とメールに書いていた。


妹も、ほんとに最後まで、病気に立ち向かっていた。「わたしは死なない気がする」「元気になる」って言って、あきらめなかった。どうしてだろう。どうして、何も悪いことしたわけでもないのに、33歳とか50歳とか、そんな若さで死ななくちゃいけないんだ。なんでよりによって妹に、彼女に、その役割が振り当てられたのだろう。悲しくて、さっきから泣きっぱなしだけど、でも明日は普通に英語のレッスンを受けたり、会社で新年の挨拶をしたりするんだ。大事な友人がいなくなっちゃったっていうのに。


ツイッターフェイスブックは、こういう個人的なこと書きにくい気がしたので、ずいぶん前から書いているこのブログであまり何も考えずに思ったことをばばばーっと書いた。新年早々、こんな話題で申し訳ないけど、でもこのブログは、自分自身のストレス発散のために書き始めたものなので、ご容赦。