金子みすゞの読みかた

このブログでしょっちゅう書いているように、わたしはいわゆる「文芸批評」に対して、
強烈な苦手意識、あるいは劣等感をもっている。
もちろん、仕事柄、文芸評論や研究論文のようなものを読む機会は多いし、
ほほお、とか、なるほど、とか思うことがまったくない、というわけではない。
でも、正直言ってそういうことはほんとうにまれで、
多くの場合、結局書き手が何をいいたいのかわからないまま読み進め、
「ま、ふつうの読者としては作品を楽しく読めればそれでいいわけだしぃ〜」という言い訳を自分にゆるして終わる。


そんなわたしに、竹内康浩『東大入試至高の国語「第二問」』は、がつん、ときた。

東大入試 至高の国語「第二問」 (朝日選書)

東大入試 至高の国語「第二問」 (朝日選書)

すでに紀伊國屋の「書評空間」に優れた書評が掲載されていて、
この本のなんともいえない不思議な魅力は十分に伝えられていると思う。
とにかくジャンル分けしにくい本だけれど、現在のわたしの仕事ととても近いところにある本であるのはまちがいない。
その中で、私が個人的に大きな衝撃を受けたのは、なんといっても第1章、
1985年に東大の国語入試問題として出題された、金子みすゞの詩二編(「積もった雪」と「大漁」)の分析だ。


著者が書いているとおり、1985年東大入試国語「第二問」に出題された当時、
金子みすゞはまったく無名だった。
でも、2008年現在、金子みすゞの名は、少なくとも小学校の教師の間では、
宮沢賢治谷川俊太郎と並んで、馴染み深いもののはずだ。
某社の5年生の教科書には、「みすゞさがしの旅」というタイトルで、かなり長文のノンフィクションが載っているし、
「みんなちがって、みんないい」のフレーズで有名な「わたしと小鳥とすずと」をはじめ、
「ふしぎ」「大漁」など、小学校の教科書は競うようにして金子みすゞの作品を採録している。


わたしはこれまで、正直言って、みすゞ=「みんなちがって、みんないい」の詩人=いかにも教科書的なご立派な詩人、
というふうに思っていた。「雨にもマケズ」の宮沢賢治も、「それでいいんだ 人間だもの」の相田みつをも、
みんなおんなじ胡散くささ、うっとうしさ、気恥ずかしさを感じて、「キライ」「苦手」だと思ってきた。
「弱者への共感」を読み取ればいいんでしょ、はいはい、というカンジだ。
ところが。
この本の著者はわたしに、その読み方は、「読み解き自体が合理的でなく不徹底でもどかしい」(18ページ)という。
もちろん著者は、みすゞの詩から「声なき弱きものたちへの共感」を読み取ることを否定はしていない。
そこに引用されている入試参考書の著者も、斎藤孝先生も、そんなふうに読み解いているわけだし、
前述の「みすゞさがしの旅」にも、そのような内容が書かれている。
わたしの読みかたは、少なくとも、まちがってはいない。
「胡散くさい」「うっとうしい」と思ってしまう不道徳な精神はともかく、まあ、普通に「読めている」はずだ。
この読み方のどこが、「合理的でなく不徹底でもどかしい」のか。


この分析が、すごいのだ。
「文学研究」「文芸批評」って、こういうことなのね、と完全に脱帽した。
くわしくはこの本を読んでもらうしかないのだけれど、
とにかくこの本は、わたしの「みすゞ」観を180度転回させたばかりか、
相田みつをと賢治・みすゞとの違いをあらためて見せつけてくれて、
わたしの根強い「賢治嫌い」まで払拭してしまったのだ。
そしてさらに、「批評家」の手にかかると作品そのものの輝きが失われてしまう、というわたしの(おそらくは劣等感からくる)偏見も、
第1章の末尾に置かれた賢治の詩「青森挽歌」を読んだとき、
みごとに打ち砕かれたのだった。


  青森挽歌

  
  けれどもとし子の死んだことならば
  いまわたくしがそれを夢でないと考えて
  あたらしくぎくっとしなければならないほどの
  あんまりひどいげんじつなのだ
  感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
  それをがいねん化することは
  きちがいにならないための
  生物体の一つの自衛作用だけれども
  いつでもまもってばかりいてはいけない  (57−58ページ)


以前読んだときにはさほど心を動かされなかったこの詩を、
竹内氏の「分析」を読んだあとに読んだら、
わたしは不覚にも涙してしまったのだった。
(わたしは賢治と同様、妹を病気でなくしている)


……と、ここまでちょっとほめすぎたかもしれない。
この本は何といっても1章がすばらしくて、
このあと、2章、3章、と進むにつれて、少し論点の重複や飛躍が気になってくる。
たぶん、切り口の鮮やかさは変わらないのだけれど、
それがあんまり見事すぎて、なんだかこちらがだまされているような気分になってくるのだ。


それでもこの本が、最後まで読み通させるような魅力というか、独特のパワーのようなものにあふれている秘密は、
紀伊國屋の書評空間で、著者と同級生だという阿部公彦氏が書いているように、
この本が1985年に東大入試を受験した著者の「自伝」だということにあるのだろう。


  恥ずかしいほど愚直で青臭く見えるかもしれない問題系
 (「自分を見つめる」「常識を疑う」「自然によって「生かされている」という負債感」などなど)を、
  驚くほどのスリリングな手つきで扱い、それを青臭くも愚かにも感じさせないのは、
  竹内がどこかでこの問題を、自分で、生きているからなのである。
  (紀伊國屋書評空間:阿部公彦書評 http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/「ずるい本」より)


著者の竹内氏はあとがきの中で、
「当時の自分から受け継いだ『たすき』を肩にかけながら、私は今でも迷走している。」と書いている。
凡庸なわたしには想像もつかないくらい頭脳明晰な「文学研究者」が、
見事な手際で分析をしたあとに記したこの情緒的な一文に、
わたしはやっぱり心を揺さぶられてしまうのだ。
(ちなみに、上記書評の阿部氏も、この書評はいつものクールな分析とは一味ちがっていて、へえ、と思った。
 個人的には冗談めかして書いている「青春の一こま」のせりふ「(「お、あべ〜、スピンかかるようになったじゃん!」)が、
 とても気に入っている。)


それにしても、昔の東大の入試問題って、すごいなあ。
詩や文章を読んで、自分の感想や意見を200字程度で書け、なんて、
採点が大変だっただろうな。
でもここで出題者がはかろうとしていたのは、今でいう「PISA型読解力」ってやつなんじゃないのかね。
まあ、呼称なんてどうでもいいけど。