翻訳のよしあしについて

先週は仕事が忙しかったうえに、お稽古事をはじめてしまったということもあって、
『宝島』がまだ読みかけ。これがものすごくおもしろいうえに翻訳もうまくて、読み進めるのが楽しみ。
「読了本がないとブログに書くネタがないな〜。もう会社の愚痴もかきたくないし〜」などと思いながら、
何気なくいつものように今日のアクセス数をチェック。で、びっくり。
なんと、500件を超えているのだ!
原因はすぐにわかった。2007年6月15日のブログに、アクセスが集中していたからだ。


今日の午前中、某名翻訳家からメールをいただき、
野崎歓さんが誤訳騒動にまきこまれているらしいというニュースを知った。
おそらくこのニュースを聞いた人が「野崎歓」「赤と黒」などのキーワードで検索をして、
わたしのブログにたどりついてしまったのだと思う。
「翻訳」に関心があって検索したのに、このような浅はかかつミーハーなブログにあたってしまい、
多くの方ががっくりしたに違いない。わたしのせいではないけれど、なんとなく申し訳ない気持ち。
(6月15日の記事がまた、とくべつミーハーなんだな……)


メールをくれた翻訳家の方は、「あれだけ大きな本なのだから、誤訳の指摘はあって当然」という。わたしも、
そのとおりだと思う。プロとして仕事をする以上、もちろんだれもが誤訳ゼロを目指して万全を期して訳しているはずだ。
それでも、翻訳者も編集者も不幸にして見落としてしまった誤訳があって、それを指摘してくれる読者がいる。
それはありがたいことだから、そのとおりだと思ったところは直す、ただそれだけのことだ。
「翻訳のよしあし」というのは、そういうところで決まるものではない。


たとえば先ほど書いた『宝島』の翻訳。作者のスティーブンスンは19世紀の作家で、
訳者の村上博基さんはあとがきで、「原文の意想外のむずかしさに消沈した」(404ページ)と書いている。
だから、誤訳のあるなし、で言えば、たぶん、少しはある、だろう。
でも、わたしは今日のエントリの最初に、「翻訳もうまくて」と書いた。
それは、英文学や翻訳の研究者でも、担当編集者でもなく、ほかの多くの読者と同じ、一読者としてのわたしの感想だ。
生涯心に残るようなきわめて個性的な登場人物たちの風貌やらせりふやらを、どんなふうに日本語にしているか。
昔むかしのイギリスの港町を、どんなふうにわたしに見せてくれるのか。
そして、子どものころに「児童向けバージョン」で読んだときの感動や興奮をいかに裏切らず、かつ、新しい発見や興奮を与えてくれるのか。
そんなもろもろを含めて、うまいなあ、さすがだなあ、と思った、ということだ。


これまでにも時々書いているけれど、古典新訳文庫のすごいところの一つに、翻訳者の選び方、というのがある。
従来の「世界文学全集」のように、学者先生ばかりというわけではなく、また、早川や東京創元で活躍している、エンタテイメント翻訳家ばかり、というのでもない。
その両方の世界から、前に記したような意味で「うまい」翻訳家をみごとにピックアップしているから、
翻訳でがっかりさせられることが、今のところ、ない。
もしかしたら、わたしの好みにあっているというだけなのかもしれないけれど、
古典新訳文庫が予想外の売れ行きをみせている、ということを考えると、わたしの感覚は他の読者とそう大きくずれてはいないはず、と思う。


野崎さんは古典新訳文庫で『ちいさな王子』と『赤と黒』を出していて、わたしはどちらも、とても楽しく読んだ。
フランス語は全然わからないけれど、やっぱり古典はいいなあ、と思い、
こうしたすばらしい作品の息吹を伝えてくれる翻訳家の存在を、ほんとうにありがたいと思った。
だから、誤訳騒動なんかに、わたしは動じない。(きっぱり。)
このニュースに際しての光文社の駒井稔編集長のコメント、
(「当編集部としましては些末な誤訳論争に与(くみ)する気はまったくありません。もし野崎先生の訳に異論がおありなら、
  ご自分で新訳をなさったらいかがかというのが、正直な気持ちです」)
に、拍手をおくりたい。


光文社古典新訳文庫といえば、創刊ラインナップの1冊であるシェイクスピアリア王』の翻訳者、安西徹雄さんが亡くなった。
リア王』『ジュリアス・シーザー』『ヴェニスの商人』と読んできて、「次は何がでるのかなあ」と楽しみにしていた矢先のこと。
この2年ほどの間に3回、安西さんの講演を聴き、そのたびに強く心を揺さぶられた記憶がある。
とりわけ、早稲田大学のエクステンションセンターでの講義は、少人数だったこともあり、
ご自身の翻訳を読みあげられるときの気迫に、「おお、リア王がここにいる!」と圧倒されたものだ。
ほんの1年前には、あんなにお元気だったのに、まだまだ安西さんに訳してもらいたいシェイクスピア作品があるのに。
あまりに突然すぎて、ちょっとまだ信じられない。


古典新訳文庫、今月の刊行は土屋政雄訳のモーム『月と六ペンス』。
中野好夫阿部知二、行方昭夫ほか、そうそうたるメンバーによる既訳がある作品を、
土屋政雄さんはどう料理するのか。翻訳小説を読む楽しみは尽きない。