お盆休み初日

今日からお盆休み。ツイッターに書き込みをしようと思うんだけど、書いては消し、書いては消し、になってしまうので、ほとんど休止状態になっているブログに書くことにした。ツイッターはどうも仕事関係の書き込みが増えすぎて、弱音とか書きにくくなってしまったみたいだ。

 

今日はお盆休み初日。ほんとうは明日の妹の17回忌で、母と大阪に行く予定だった。ホテルも新幹線の切符もとってあったのだけれど、父の具合が思わしくないので、母も私も大阪行きをとりやめた。かわりに、韓国のマスターズ水泳に出場する予定だった兄が出場をとりやめ、大阪に行ってくれることに。兄は昨日の夜も病院に来てくれたので、ちょうど退社後の私の見舞い時間と重なり、ふたりで父の病室で過ごした。ほとんど話はできなくなってしまっているけれど、意識はしっかりしているので、わたしが言った冗談に父が笑ってくれた。今日も夕方病院に行ったけど、タイミング悪くずっと苦しそうに息をしながら眠っていた。明日は起きてくれるかな。

 

仕事もたっぷりと持ち帰っているし、読みたい本もたくさんあるのだけれど、なかなか元気が出ない。以前に妹が闘病中だったときも、意外に読書がはかどらなかった。がっつりした本を読むのはパワーがいるし、ちゃらちゃらした本を読む気分にはなれない。

 

こういうときにネットの存在はありがたくて、ツイッターでつながっている友人たちが本を買ったりお酒を飲んだり旅をしたりしている報告をぼんやりながめていると心が安らぐ。もう少しだけ、こうやってだらだら過ごすことを自分にゆるそう。わたしは自分が思っているほどには強くないらしいし、意外にも猛烈なファザコンだったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンポジウム行ってきた

どうもこのPCはタイピングの音がかちゃかちゃいうので同居人がうるさがり、深夜にリビングで入力するのがはばかられる。かといって自分の部屋は寒いし散らかっているので、同居人がよく眠っているのを確認してから、こっそりとブログを書き始めた。このストレスを解消するだけのために、PCを買い換えたいくらいだ。何かいい方法はないかな。

 

それはさておき、今日は久しぶりに同居人といっしょにシンポジウムに行ってきた。しかも国語教育の。同居人は英語英文学の人なので、国語教育のシンポに同行するのはめずらしい。私だって、国語の教科書編集の仕事から離れてもう5年近く経つので、それなりに久しぶりだ。

 

とにかく驚いたのは、開始20分前くらいですでに、160くらいあった席が満席になっていたこと。私たちは早めに着いたので無事座席を確保できたけど、最終的には廊下に椅子を並べて、教室内の様子を音声で流す、ということになったらしい。主催の先生はさかんに恐縮していたけれど、これは予測できなかったと思う。もちろん私たちは、登壇者が豪華だと思ったし、だからこそ連休なか日の日曜日に出かけていったわけだけど、まあ、普通はこんなにたくさんの人がこうした会に集まるとは思わないよね。これは嬉しい誤算だし、若い人が思ったより多かったので、国語教育の未来は明るい? と思ってしまった。

 

登壇者の話の中では、やはり門外漢ながら、阿部先生の話がダントツで面白かった。門外漢ながら、というより、門外漢だから、かもしれない。英語、英語教育とからめての国語、国語教育の話や、文芸評論家ならではのテキスト分析の話が、いつもながら軽妙かつ的確な比喩とともに語られて、いやあ、やっぱり阿部さんはすごい。ここのところ阿部さんは英語入試の人になってしまった、と寂しく感じていたので、なんというか、おかえりなさーい! という気持ちになって、ものすごく久しぶりに「紀伊國屋書評空間」の過去記事をあれこれと読み返してしまった。

 

それでちょっと思ったのは、学校の国語の先生とか、翻訳家とか、そういう言葉にかかわる仕事をしている人は、ぜひ、仕事と関係のない本をたくさん読んでほしいなあ、ということ(なんだか上からみたいで気がひけるけど、私ももう定年まであと数年なので図々しく言わせてもらうことにする)。学校の先生も翻訳家も、めちゃくちゃ忙しい仕事だから、時間なんてとれないかもしれないけど、でも、なんとかがんばって時間つくって、仕事と関係のない本を読んでほしいんだよね、とくに、若い人には。そしてこの言葉は、そのまま自分に返ってきて(若くないけど)、編集などという言葉にかかわる仕事をしているのだから、もっともっと本を読まなきゃね、と思ったのだった。(ちなみに私が同居人のことをすごいなーと思うのは、彼は常に仕事と無関係の本を読み続けている、ということ。日本文学、海外文学、エッセイ、評論とジャンルも多様。一方のわたしは、ミステリなどのエンタテイメントも含めた小説、フィクションに偏りまくっている)

 

昨夜遅く、『元年春之祭』を読了。(タイトルがいいよね)次はブログ仲間が絶賛していた『パワー』を読もうと思ったんだけど、会社に置いてきてしまったようなので、『おやすみの歌が消えて』に変更しようかな。ちなみに、今年に入ってからの読了本は、『彼女は頭が悪いから』『ハックルベリー・フィンの冒けん』。感想を書き留めておきたいけど、今日はもう眠いので、また後日。

 

彼女は頭が悪いから (文春e-book)
 

 

 

ハックルベリー・フィンの冒けん

ハックルベリー・フィンの冒けん

 

 

 

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

 

 

 

人の反応を気にせず書く

ここ数年、見るのも書くのもブログからツイッターに完全に移行してしまって、何年もずっと読み続けてきたおなじみのブロガーさんの記事も、ほとんど読まずに過ごしていた。はてなダイアリーの終了にともなって、はてなアンテナのチェックがうまくできなくなってしまったのだけれど、皆さん、どうされているのかなあと思って、すごく久しぶりに見に行ってみた。

 

全員ではないけれど、わりとみなさん淡々と書き続けていらっしゃる。コメントも反応も何もなくても(というか、そういえばブログは何もないのが普通だった)読んだ本のこととか、ごく当たり前の日常生活のこととか、その人らしい文体で、たぶんあんまり人のこととか考えずに書いてる。日によって分量もまちまち。ああ、そうだよなあ、ツイッターフェイスブックに慣れてしまうと、やっぱりどうしても人の反応が気になって、リツイートやいいね、コメントなどがあるとやっぱり嬉しくて、人の書き込みを読んでいるときも、いいね、ボタンを押す気満々で読んでいるような気がする。

 

だからひさしぶりに以前よく読んでいたブロガーさんのブログを読んで、ああ、この人のこの文章好きだな、とか、おお、同じことわたしも考えてた、なんてときに、思わずいいね!をさがしてしまったくらいだ。(たしかはてなには、スターというのがあったような気がするが、ダイアリーからブログにかわって使い方がわからなくなってしまった。)

 

でも、とりあえずこのブログは、それでいいんじゃないかな。もともと自分の読了本の覚書と個人的な発散の場としてはじめたもので、以前は仕事上の不満とか、職場の上司が読んだら結構やばいかも、というようなことをバシバシ書いてからねー。まあ、一応、会社員なので、そこそこ節度は守りつつ、人の反応はあまり気にせず、自分が書きたいことを書く、ということにしようかね。

2018年のベスト&今年こそブログ復活

ここ数年、ブログを書くのをさぼっていたせいで、その年どんな本を読んだのか、どんな年だったのか、ほとんど振り返ることができなくなっていた。純粋に記録がないと不便だな、ということがあり、今年は読書記録だけでも、復活しようと思っている。

 

それに老眼が進んだためにメガネをかけないと本が読めず、読書量が激減(職場の上司はハヅキルーペを激推ししてたけど)。電車の中や旅先でもあまり読書が進まず、ベスト本を選べるほど読書していない、という情けない状況になった。

 

こんなことではいけない。というわけで、今年2019年の目標は、ブログと読書の復活。正直言うと4年前に部署異動になってから個人的にやりたいことと仕事の距離が縮まって、公私の区別があまりなくなってしまった。読みたい本と出したい本、行きたいところと行かなくちゃいけないところの差がどんどんなくなってしまって、仕事一色といえば仕事一色の日々になっている。でもまあ、定年まであと数年、しばらくはそういう生活を送ってみてもいいのかな、とも。

 

で、昨年はあまり読んでいないのだけれど、その中でのベスト本は、次の3冊。

 

エリザベスの友達

エリザベスの友達

 

 

 

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)

 

 上の3冊(というかカササギは上下なので4冊)は、どれも仕事とはほぼ関係なく、純粋に読書を楽しんだ。年末年始に実家に帰ったら、母と兄からお勧め本を聞かれたので、迷わず『エリザベスの友達』をすすめた。けど、どうかな。万人受けする小説ではなかったかな。でもまあ、イギリス小説が好きな人は、この3冊はどれも絶対好きだと思う。

 

一昨年にホームズクラブに入会したことや、年に1回ロンドンに行っていることもあり、ここ数年、むくむくとイギリス熱が高まっている。今年も「とりなさい」と命じられている有給休暇を使って、3月に1週間、ロンドンに行く予定。ホームズを含め、イギリスを舞台にした小説や映画やお芝居にはどうしても目が向くようで、この先も当分は、この傾向は続くんじゃないかな。

 

その流れで、というわけでもないのだけれど、今年観た映画のベスト1は、「ボヘミアン・ラプソディー」。ミーハーだと言われるかもしれないけど、この映画はひさびさに胸が痛くなるほど心を揺さぶられた。クイーン世代のはずなんだけど、ちゃんとクイーンの音楽を聴いたことはあまりなかったので、映画ももちろんなんだけどクイーンの音楽そのものにやられちゃった感じ。映画を観た当日から、Apple Musicでクイーンをダウンロードしまくって、毎日のようにクイーンを聴いてた。

 

そして今年のイベントベスト1は、じゃじゃーん! はい、昨日今日と横浜アリーナで行われた、Perfume カウントダウンライブ! この年になって、ファンクラブのTシャツ着込んで、こぶしをふりあげて大声でコールするななんて、思ってもいなかった。でも、これはすごかった。音楽、ダンス、照明や演出、ほかのお客さんとの一体感、ものすごい多幸感、間違いなくこれは一生に何度経験できるかってくらいの、感動体験だったと思う。20代の頃、妹とヨーロッパ旅行をして、フォロ・ロマーノを見下ろしたときに「生きててよかった」と思ったんだけど、そのときと似た感じ。そんな若いときと同じような感覚を、50代でも味わうことができたんだから、Perfumeには感謝するしかない。

 

というわけで、昨年は公私ともになかなか充実してたんだけど、ひとつ、大失敗に終わった重要事項があるのだ。それは、ダイエット。一昨年、食事と運動でだいぶ痩せたんだけど、昨年は全然だめで、一昨年の努力が水の泡。毎年のように目標として掲げる減量は、最近はたちの悪い冗談みたいになってきている。けど、ここで諦めてしまうと、ほんとうに体のためにもよくないし、まだまだこの先やりたいことをやり続けるためにも、健康第一、ダイエットしなければ! 毎年、代わり映えしない目標だけど、今年こそ、ブログ復活&ダイエット成功、を目標とします!!ひっそりとブログを読んでくださっている方、今年もどうぞよろしくお願いいたします!

 

大村はまとナンシー・アトウェル

ぐちゃぐちゃの20代後半、葉山の中学校で国語を教えていた頃、県の研修で大村はまの講演を聴く機会があった。当時、研修的なものに行くとたいてい、「子供たちの目が輝く授業」のような空々しい言葉が並んで辟易していたので、高名な大村はまさんのお話に期待半分、どうせ似たようなものでしょという諦め半分ででかけていった。

 

大村はまの講演は、控えめに言っても衝撃的だった。やさしそうな雰囲気とは裏腹に、話している内容がものすごく厳しく、教員に求める志や能力や取り組み方の水準がおそろしく高く、かつ具体的で詳細で、こんな国語教師が実際にいるのか、無理だ、絶対に無理、でも、目指してみたい、がんばって追いかけてみたい。心からそう思って、半ば放心状態で研修のあった県の教育センターをあとにしたのを覚えている。たぶん、1991年か92年のことだと思う。

 

それからいろいろなことがあってわたしは教職をはなれ、20代に負けずおとらずぐちゃぐちゃな30代に突入し、国語の先生をしていた頃のことは、黒歴史のように心の中に封印し、学習参考書の編集プロダクションや、教科書関連の出版社の履歴書の経歴欄にだけ、そっと記す性格のものになった。中高の先生方と直接いっしょにお仕事をする機会が増えれば増えるほど、自分自身の短い教員生活のことはますます黒歴史化して、思い出したくない経験になっていった。

 

ところが数年前に、「翻訳ものだから」という理由で別の部署からわたしのところに、ある持ち込み企画が転送されてきた。In the Middle というタイトルの分厚い本で、著者はナンシー・アトウェル 。アメリカの英語教師(つまり国語教師)だという。教育関係かー、あまり売れないし、分量多すぎるし、うちでは難しいな、とすぐに思った。のだけれど、なんとなく、心がざわざわした。一応、ちゃんとレジュメを読んでみよう。ちゃんと読んでから、たぶん断ることになるだろうけれど。そう思って、転送してきた人に「少し検討してみたいから待ってもらえないか」と返事をした。

 

レジュメを読んで、これは、大村はまだ、と思った。あのときの、20代のわたしが放心するくらい衝撃を受けた、大村はまアメリカ版だ。なんとか私の手で世に出したい、と思ったけれど、分量が多すぎる、こういうタイプの本はうちでは前例がない、グローバル・ティーチャー賞をとってはいるものの、著者は日本ではほぼ無名。企画会議を通すにはあまりに課題が多すぎると思った。

 

それから訳者の方々にお会いしてそのものすごい情熱に触れ、何度も企画を練り直してついに企画会議を突破し、約2年の翻訳・編集期間を経て、今年、とうとうこの本を刊行することができた。新しい本ができあがるのはいつも嬉しいし興奮するけれど、このときは個人的な理由で、格別だったように思う。それは、大村はまのような教師にはなれなかったけれど、でも、ナンシー・アトウェル という人を紹介することができたよ、とあの頃の自分に言ってやりたい、というような気持ち。

 

この本の企画を転送してくれた編集者から、企画書や帯には大村はまの名前を出さないほうがいいと思うよ、古臭いと思う人もいるだろうから、と言われたので、出さなかったのだけれど、わたしはこの企画と出会ってから刊行までずっと、大村はま大村はま大村はま、と思い続けていた。編集をしながら、大村はまとナンシー・アトウェル が重なり、まだ見ぬこの本の読者と県の教育センターから呆然と出てきた若き日の自分が重なった。

 

いやあ、まいりました。こんなふうに、自分の中で黒歴史化していたことが昇華するなんてことがあるのかと。仕事がらみの個人的な話をブログになんて書くべきじゃないのかもしれないけど、なんとなく、今年のうちにこのことを書いておかないと後悔するような気がしたので、思い切って書いちゃいました。まずかったら非公開にする、ってことで。

 

増え続ける本問題

わたしの枕元には、そうだな、ざっくり200〜300冊くらいの本が常時積まれている。これは同居人の本で、わたしは本を買ったらとりあえず自分の部屋に持って帰っているのだけれど、同居人は枕元にどんどん積み上げて、なかなか自室に持ち帰ってくれない。彼の部屋は9畳くらいあって、すべての壁面にスライド式の書棚が置かれ、床にも本を積み上げているというのに! さらにマンションの別棟にある倉庫にはダンボールに入れた読了本が積み上げられているというのに!

 

6畳のわたしの部屋も、壁面にスライド式の書棚をいくつも置いて、あふれた分は床に積み上げてなんとか対処している。1年くらい前に雑誌や実用書など手放してもいいと思う本を抜き出して中古書店に売り、だいぶ減らしたのに、また書棚に入りきらなくなって、床の積み上げ本がどんどん増えてきた。2列に並べた奥の本は全然タイトルが見えないから、これでは必要な本が探せない。

 

完全な書庫と化している同居人の部屋は、海外文学を中心に素晴らしい品揃えで、探索していれば何時間でもそこで過ごせそうな本好きの天国。だからわたしは同居人の蔵書に愛着と感謝こそあれ、邪魔だとか捨てたいとか思ったことはただの一度もない。でも、でも! この枕元をじわじわと侵食してくる本たちには、だんだん恐怖を感じてきた。これ以上増えたらふとんが敷けない。地震がきたら本が顔面を直撃する可能性もある。同居人に言わせると、これでも少しずつ、気づいたときに自室に持っていったり、自室の本をダンボールに入れて倉庫に持っていったりしているとのこと。嘘ではないのだろうけれど、それと同じかそれを上回るペースで新規購入本が積み上げられるので、ほとんど変化はみとめられない。

 

それで今日は、二人で本気で近所に安いアパートでも借りて、書庫にしたらどうか、ということについて考えた。自宅から自転車で行ける範囲で、古くてもいいから、家賃格安で本棚をずらりと置いても床が抜けないような、広めのアパートはないものか、と。結構本気で、ネット検索してみたんだけど、ないんだよねー、そんな都合のいい物件。定年後の年金暮らしになっても、家賃を払い続けなくてはいけないということを考えると、無理だわー、ということになり、結局、家具を処分したり模様替えしたりしてできるわずかなスペースにスリムな本棚を2つ入れて、当座をしのぐことになった。

 

でもねー、なんかアパートさがしてるとき、夢があって楽しかったな。家の近くに9.5畳でロフト付きの物件があって、本を選んでロフトでごろごろしながら読むのを想像したら、わあ!って感じになった。いまのマンションを購入したときは、北側に6畳と9畳の部屋があるから、これをそれぞれの部屋にして本棚を設置すれば、たっぷり本が収納できるね、なんて話していたのに、ここまで増えるとは。だれかいい解決策があったら教えてほしい。

 

 

 

 

『エリザベスの友達』読了

ここのところ「当たり」続きで好調の読書、今読み終わった村田喜代子『エリザベスの友達』も、心から読んでよかった、と思える小説だった。そして、わたしにとって、今まさに読むべき小説だった。

 

もともとわたしがこの本を読もうと思ったのは、村田喜代子好きの同居人が買ってきたこの本の最後に載っていて、著者が「作品執筆の強い契機になった」と書いている、松村由利子の短歌が、心にずどんと入ってきたからだ。同居人は貸してくれると言ったけど、この本は自分の本として持っておきたくなるような気がして、ちゃんと自分用に書店で買ってきた。だからうちにはこの本は2冊ある。

 

地方都市の老人施設を舞台に、そこで暮らす認知症のお年寄りと見舞う家族の日常を、淡々とした筆致で描く、あらすじとしては地味な小説。でも、おばあさんたちが行き来している幻のような過去と現在が交互に描かれていくスタイルは、小説ならではの醍醐味をたっぷりと味わわせてくれる。過去と現在の切り替わりは故意に曖昧に描かれていて、おばあさんたちにとっては、いま目の前に見えている過去こそが現実なのだということが、じわじわと胸に迫ってくる。

 

認知症介護の実態やその先にある死も当然描かれるのだけれど、介護士さんたちも家族も、そしてお年寄りたちも、どこかユーモラスで少し哀しく、読後感は温かい。戦中戦後の混乱期を生きた祖母や母の人生にも、いろいろな記憶の断片が詰まっているに違いなく、どんなふうだったか元気なうちに聞いておきたいというような、ノンフィクション的な興味もないことはないのだけれど、本書の読後感としてはそれは野暮かなと思う。高齢の両親がこの先認知症になるにしてもならないにしても、どうか幸せな記憶を抱いて過ごしてほしい。そして自分も、年をとってそのときがきたら、きっと妹がむかえにきてくれると思う。この文章を書きながら、妹とタオルケットや毛布をドレスに見立てて、母の蔵書の世界文学全集から名前をもらって、お互いを「ミッチェル」「マーガレット」などと呼び合っていたことを、突然思い出した。

エリザベスの友達

エリザベスの友達