今年最初の書き込み。

3月の半ばに今年最初の書き込みをしているのだから、もうこのブログはほとんど閉鎖したも同然、ということなのだろう。2年前に異動してから、以前のようにこの時期死ぬほど忙しいということもなくなった。とくに、仕事の性格上、休日出勤が激減したため、本を読んだりブログを書いたりする時間は、ずいぶん増えたはずなのだ。でも、なんとなくブログを書くのが億劫になってしまって。ツイッターフェイスブックの影響が大なのは間違いないけど、久しぶりにはてなをのぞいてみると、以前のブログ仲間はほとんどみんな、以前と変わらないペースで楽しげにブログを書いてるんだよね。


なので、わたしも、ブログは気が向いたときにかけるように、閉鎖はしないでとっておこうと思う。誰も読んでいなくても、中学校、高校時代の日記のように、あとで自分が読み返すことができるように、思ったこととか、読んだ本のこととか、書いておこう。


この3連休は、珍しく3日間、完全に会社の仕事をしないで過ごした。初日は夕方から友人の編集者の誕生日祝いに行き、某業界の重鎮の方々と言葉を交わす機会に恵まれた。2日目は実家の両親と3人で近所の鮨屋でランチ。3日目は新宿で映画・温泉・本屋さん。自宅にいるときはずっと、「ダウントンアビー」のDVDを観た。ついにさきほど、シーズン6のファイナル(クリスマススペシャル)まで観て、結末(大団円)まで観て、そうか、そうか、そうなったか、という感じで心が落ち着いた。やっぱり人気シリーズになるだけのことはある。役者はうまいし、脚本もよくできてるし(シーズン4以降は英語字幕で観たので、内容すべて理解できているかどうかは怪しいものだけれど)。観ている間は自分もその世界の中で生きているみたいに、どきどきはらはら、泣いたり怒ったりしていた。来月ハイクレア城のツアーに参加するのがほんとうに楽しみ(これまた英語力の問題が立ちはだかるのだけれど)。


これまでに読んだ本を羅列だけでもしようかと思ったけど、前回書いたときからあまりに日にちが過ぎてしまって、それはちょっと難しそうだ。いま読んでるのは、『もう年はとれない』というタイトルの翻訳ミステリ。ずいぶん前に参加した読書会の課題図書で読んだ作家のデビュー作で、長いことカバンの中に入ってはいるのだけれど、いろいろと邪魔が入って(別の本を読みたくなったりして)読み終わらない。最近読んだ本でいちばん面白かったのは、ジュリアン・バーンズ『アーサーとジョージ』。ああ、『ハーレムの闘う本屋』もよかった。そうだ、直近では『チップス先生さようなら』もよかった。うーん、こうやって思い出していくと、ああ、なんでその都度、感想を書いておかなかったんだろう、と思ってしまう。とても大切な本を、忘れているような気がするなあ。

小鷹信光『翻訳という仕事』

小鷹さんが亡くなったので、ふと思い立って、若い頃バイブルのように繰り返し読んだ小鷹さんの『翻訳という仕事』を引っ張り出してみた。ジャパンタイムズから出たこの本は、初版が1991年。わたしが買ったのは、1992年10月20日刊行の第3刷だった。

翻訳という仕事

翻訳という仕事

20代の終わり、学校の先生をやめて本気で翻訳家を目指そうと決心した頃に、購入したと思われる。わたしはめったに本に線を引くことをしないのだが、なぜかこの本には赤いボールペンで何箇所か線が引いてある。いま引いてある箇所を見ると、笑ってしまう。ものすごく現実的なところにばかり、線が引いてあるのだ。小鷹さんの1日の仕事の仕方とか、どうやって編集者と知り合って気に入ってもらって仕事をもらうかとか、駆け出しの頃の翻訳家の年収(!)とか。


現在よりもだいぶ業界の状況はよかったと思うけど、それでも翻訳家で食べていくのは相当大変だ、という見通しを、小鷹さんは書いている。好きじゃなければ続かない、とも書いている。当時それを読んで、だいじょうぶ、がんばる、と思ったものだった。「わたしはたんぽぽ食べても生きていける」と豪語していたものだった。でも実際に、独り身で収入がない、という生活をしてみたら、予想以上につらかった。洗濯機なしでがんばっていたら、みかねた妹が「これで洗濯機を買って」とお金をくれたりした。未払いだった雑誌の原稿料10万円をもらうために、月に1回出版社に電話をかけ続けたこともあった。最低限の食費のほかに、家賃は確実に出ていくし、翻訳学校の授業料もある。20代の終わりだから「駆け込み婚」の友達も多くて、お祝儀が捻出できず仮病を使って欠席しようかと真剣に考えたりもした(もちろん、実行に移したことはないよ)。


もちろん、翻訳以外の仕事、アルバイトなどもしていたけれど、翻訳の仕事というのは、小鷹さんも書いているように、予想以上に肉体労働なのだ。物理的に1日数時間、パソコンの前に座って文章を作り出さなくちゃいけない。食べるためのアルバイトで忙しくなって、翻訳をする時間がとれなくなると本末転倒なので、なるべく単純作業のアルバイトを選んだほうがいいんだけど、単純作業は時給が安い。時給が高めのやりがいのあるアルバイトを始めてしまうと、翻訳のほうがおろそかになる。翻訳の勉強をはじめてからいま勤めている会社に就職するまでの10年は、ずっとこの二つの間で揺れ続けていたと記憶している。


でも結局、わたしが翻訳の仕事を続けられなくなったのは、経済的な理由よりも、翻訳という作業の孤独さのせいだったような気がする。朝から晩まで、誰とも口をきかず、一人黙々とパソコンに向かう。これが、365日、ほぼ毎日続く。作業をしていて何かおもしろい発見があったり、誰かに相談したいことが出てきたり、息抜きでおしゃべりしたいと思っても、だれも話し相手がいないのだ。就職する前の5年ほどは、アルバイトで編集プロダクションに勤めていて、ここでは一緒に働く仲間がいて、忙しかったし、身分は不安定だったけど、ずいぶんこき使われたなという印象もあるけれど、人といっしょに働くのって楽しいなと思った。自分は「一人黙々と」より「みんなでわいわい」のほうが向いてるかなと思いはじめた矢先に、いまの会社の正社員の募集があって、人生最大の決断(のひとつ)をして就職した、というわけだ。


めぐりめぐって12年ぶりに、今度は編集者として翻訳業界に戻ってきた。小鷹さんの本に一生懸命赤い線を引っ張っていた頃の自分のことを思い出すと、なんだか滑稽で、少し物悲しい。わたしがこの本をバイブルのように思っていたのは、きわめてクールに現実を直視していたことと、その一方で翻訳という仕事に対する情熱と使命感にあふれていたためだろう。当時もいまも、すぐにでも翻訳家になれるようなキャッチコピーの本や、お手軽な学習本はたくさんあるだろうけど、この本は特別に優れた本だったと思う。


そうだー、読み終わった『『罪と罰』を読まない」の感想を書かなくちゃ、ねー。感想書きにくい本なんだよねー。いま、遅れ馳せながらウェルベック服従』を読み始めた。前に『素粒子」を読み始めてとちゅうで挫折しちゃったんだけど、『服従』は最後まで読めそうな感じ。これまでのところなかなかおもしろい。あと、後輩が面白かったと言ってたので、某若手社会学者のデビュー作が文庫になっていたので電車の中用で読み始めたんだけど、こちらは私的にはいまいち。いまの若者と比較される1980年頃の若者像が、あまりに類型的でいらっとする。世代論ってどうして、自分の世代はいろんなタイプの人のことを描いて重層的なのに、上下、とりわけ上の世代について、ステレオタイプの見方になっちゃうんだろうねえ。

ちはやふる

我が家は二人ともほとんど漫画を読まないのだが、このたび「ちはやふる」という大ヒット漫画が映画化され、主題歌はPerfume 、とのことで、遅ればせながら漫画好きの後輩に頼んで入手し、読み始めた。数年前に仕事でお世話になっている高校の先生から、この漫画をめぐる漫画家と編集者の熱いエピソードをうかがっていたということもあり、まあ最初の数巻だけ読んでみて、面白ければ続きも、というくらいの軽い気持ちで読み始めたのだが。。。


面白かった。借りてきた5巻をあっというまに読み終えて、明日は次の5巻、またその次、というふうに読んでいくつもり。じつは「あっというま」というのは正確じゃなくて、何しろ漫画というものを読みつけないので、1巻はかなり手こずった。読み方の手順というか、目の動かし方がよくわからなくて、なんだか集中しないのだ。2巻、3巻と進むうちに慣れてきて、あとはもう、先を読むのが楽しみで、次、次、という感じ。


この漫画家さんは不祥事でしばらく休筆して、その後、読み切りで復活、翌年、この「ちはやふる」の連載を開始して、大ヒットになったのだそうだ(有名な話なのかもしれないけどわたしは漫画疎いので何も知らなかった)。出版界は案外こわいところで、自分では思いがけないところでミスを出したり、それが大きな事故につながったりすることがある。ただ、何かそういうトラブルや事故があったときに、どうやって復活するか、立ち直るか、というところで、その書き手なり編集者なり会社なりの、真価がわかるんだと思う。少なくとも、笑っちゃうくらいはっきりと、敵と味方がわかる。


どなたかがこの漫画家さんの復活について、「描き手は、作品を世に出すことでだけ、許されるのだ。彼女は、読者に許されたと思う」と書いていて、かなりうるっときた。休筆してて、最初に読み切りを出すとき、どんなに不安だっただろう。連載スタートしてからも、「もうだいじょうぶ」って思えるまで、きっと時間がかかったと思う。部活のようなものでも、仕事でも、本気で情熱を傾ければ、失敗や挫折はつきもので、この漫画はそういう意味では、作者が文字通り身を切るようにして生み出した漫画なんだな、と思った。


会社の後輩は漫画好きが多くて、やっぱりこれは世代の違いか? と思ったりもする。漫画もおもしろいのたくさんある、っていうのはわかるんだけど、これ以上漫画にまで手を出すと、本を読む時間が足りなくなっちゃうからねえ。昨日から、『「罪と罰」を読まない』というタイトルの奇書(と言っていいと思う)を読んでいるんだけど、非常におもしろい。なぜおもしろいのか、説明するのはかなり難しいけど、とにかく「罪と罰」をすでに読み「傑作」と思っている私が読んで、じゅうぶんおもしろい、ということだけ、とりあえず書いておこう。

今年はほとんど休止状態

ここ数年、どんどん休眠状態に向かっていたこのブログ。今年は今日までに全部でわずか9回しか書いてないということがわかった。読書も全然はかどらなくて、読了本がほとんどない。読みたい本、読むべき本はいっぱいあるのに、どんどん積ん読状態になっている。


年末に入ってからいろいろあって、かなり参っている。人の悪意にふれたり、孤独感に苛まれたり、何より、自分の力不足を思い知ったり。そういうときはジタバタせずに、静かに目の前の仕事に向き合うべし、と同居人に言われた。ので、今日は休日出勤して、一日静かにゲラを読んで過ごした。たしかに、ゲラを読みながら、固有名詞の統一とか、ファクトチェックとかを黙々とやっていると、本来仕事というのはこういうもので、地味で孤独な作業の積み重ね、なのかもしれない。


今年の目標は、訪英とダイエットとテニス復活だったんだけど、達成率は50%。ロンドン・ブックフェアばかりか、今年は秋にフランクフルトのブックフェアに行く機会にも恵まれ、10月中旬くらいまで仕事もやる気満々だった。ダイエットは夏のテニス合宿で一念発起してダイエットに取り組み、年内に10キロ減を目標にがんばってきたけど、7キロ減くらいで止まってしまった。さらにここのところの気分のダウンで、昨日はアイスクリーム&ポテトチップス、今日はケーキと、とてもダイエット中の人とは思えない食事をしてしまった。あと、テニス復活は、果たせず。


来年も、ブックフェアの時期にイギリスに行きたいなあと思ってる。あと、ダイエットはさらに7キロ減。仕事は大型本が4冊と、単行本が3冊、既にやることが決まっている。どれも、自分がやりたくて通した企画ばかりだから、やる気満々!なはずなんだけど、いまひとつ元気が出ないのは、社内でこの本のことを真剣に考えてるのは自分ひとりだけ、だからかな。うーん。あ、でも、来年から新たに同僚ができるので、少し相談したり、愚痴こぼしたりできるかもしれないので、ちょっと期待できるかな。同僚っていっても年上のベテラン編集者なんだけど。


12月に入ってから、ノンフィクションとミステリ、二つの翻訳関係の忘年会に参加して、旧知の人に久しぶりに会ったり、新しい出会いがあったりで、とても楽しかった。どちらも翻訳者と編集者とエージェントが参加してるんだけど、参加者のタイプが微妙に違うのが興味深い。やっぱり、ノンフィクションのほうはビジネスライクで、ミステリはオタクっぽい。ミステリのほうは翻訳修行時代以来だから10数年ぶりに参加して、翻訳で食べていこうとがんばっていた30代のころを思い出した。業界の状況は当時よりもだいぶ悪化して、初版の部数が下手すると半分程度にまで落ち込んでいるから、翻訳で食べていくのはますます大変になっている。それでもみんな、翻訳の仕事が好きでがんばってるんだなあ、と思うと、「企画会議がとおらない」とか弱音はいてる場合じゃないな、と思う。今年はあともうひとつ、翻訳関係の忘年会があって、これで忘年会おさめ、かな。


そうだ、来年やってみたいことのひとつに、シェイクスピアの舞台をみる、っていうのがあった。来年はシェイクスピア没後400年のメモリアルイヤーで、シェイクスピア関連の書籍(翻訳ものの大型本)も担当している。で、いまはその原稿を読んでいるんだけど、やっぱりシェイクスピアって奥が深いなーと思うんだよね。いろんな解釈があって、それに基づいていろんな演出の舞台があって、全作きちんと読んでみたい(もちろん翻訳で、だけど)とも思うし、やっぱり舞台をみてみたい。今年は諸般の事情によりずいぶんたくさんライブに行って、ライブっていいもんだなあと思った。ロンドンでみたミュージカルもすごい迫力で、それなりにお金はかかるけど、印象は激烈で一生忘れないだろうな、と思う。


さて、夜も更けてきたので、紅茶でも淹れて、積読本の山の中からどれか一冊抜き出して、読み始めることにするかな。

年をとっていくのだ

橋口幸子『いちべついらい 田村和子さんのこと」読了。

いちべついらい 田村和子さんのこと

いちべついらい 田村和子さんのこと

年をとっていくこと、孤独、記憶、いろいろ考えながら、胸に何かつっかえているような感じをおぼえながら読み終えた。和子さんや著者と同じように、わたしも年をとっていくのだ、これまであったいろんなことを抱えて。


著者が田村和子さんの家に間借りすることになったとき、和子さんは49歳だったという。ねじめ正一の『荒地の恋』に描かれていた内容とほぼ同じようにものごとは進む。著者は作品中で、『荒地の恋』の和子さんは、ほんとうの姿とちょっと違う、と書いているけれど、わたしは『荒地の恋』の和子さんも、『いちべついらい』の和子さんも、どちらもとても魅力的だと思う。


二人の詩人も和子さんも、やってることはめちゃくちゃだけど、本人たちは生真面目に、一生懸命考えて生きてきたってことがよくわかる。誰になんと言われようと、そうするしかなかったんだろう。作品の舞台が自分にとって馴染み深い鎌倉の地ということもあって、著者の描く和子さんと著者自身の50代以降の日々に、どうしても自分自身の未来を重ねてしまう。


いやいや、会社勤めもしてるし、同居人もいるし、全然状況違うでしょー、と自分で突っ込んでみたりする。でも、そういうことじゃないんだな。和子さんと著者の年のとり方が違うように、わたしはわたしなりのやり方で、でも確実に年をとっていくのだ、ということ。あたりまえだけど。そしてこれからどんなふうに年をとっていくのかは、これまでどんなふうに生きてきたかということを反映しているというか、これまでのことの「記憶」を抜きにして生きていくことはできないんだな、ということを、あらためて感じたのだった。


いい本だった。自分にとって大事な一冊になると思う。

マッドマックス観たー!

今日は午前中から渋谷に繰り出し、まずは東急7階のジュンク堂へ。1時間半ほどうろうろし、自分が担当した書籍が売り場のいい位置に鎮座しているのをチェックし「ありがたやー」と拝み、単行本を1冊だけ買ってパスタを食べ、予約していた映画館へ。30分前くらいに着いちゃって、待っている間まわりを見回すと、あれ、予想以上に年齢層、若い! もっと旧作をリアルタイムで観たっていう人が来てると思ったのに、渋谷という場所柄かもしれない。


いやー、おもしろかった。あまり詳しく書くとネタバレになっちゃうので控えるけど、アクション映画、娯楽映画として、最高に楽しめる。アクションシーンの迫力、風景の壮大さ、徹底したバカバカしさ。ヒーロー、ヒロインも文句なしにかっこいい。旧作は「1」と「2」を観たんだけど、今回の「怒りのデスロード」はダントツでよくできてると思った。


渋谷は通勤経路と外れるので、近いわりに案外出かける機会が少ないのだけれど、先日わけあってハローワークに行ったとき(転職とかじゃないよ!)、以前よりずいぶん大人が楽しめる街というか、私くらいの年齢の人間にとって居心地のいい街になったような気がした。で、今日行ってみて、あらためてそう思った。今日行ったジュンク堂は品揃えがなかなか充実してたし、パスタも美味しかったし、映画館も座席を予約できるし50歳以上割引あるし。ご機嫌で帰宅して、さえきで買い物をして、今日の夕飯は、マス寿司とゴーヤチャンプルー、食後にバナナ。なんだか変な組み合わせだけど、自分たちがよければ、それでいいのだ!


夜はテレビでお笑い番組を観て、早寝早起きの同居人はもういびきをかいて寝てる。わたしはこれを書き終えたら、だいじにとってあったケン・リュウの短編集の続きを読む。先輩にもらったマカイバリ農園の紅茶をいれよう。1100円の映画と、1900円の本が、人生をこんなに豊かなものにしてくれる、って考えると、ちょっと驚く。お得だよね。

久しぶりに書いてみる

1年ちょっと前に部署が異動になって、だいぶ時間に余裕が出てきたはずなのに、なぜかブログの更新がはかばかしくない。やはり、ツイッターの影響が大きいとは思うけど、このままだとほんとにまとまった文章が書けなくなるような気がするので、週末とかはなるべくこっち(ブログ)を書くようにしようかな、と思い始めた。(続くかどうかはわからないけど)


昨日、某大学の文芸批評についての授業を聴講するという機会に恵まれた。日本を代表する一流大学の学生さん、院生さんの発表を、後輩の編集者といっしょに拝聴し、時折、コメントを求められると、後輩が答えてくれた。そのあと、大学の研究室に行って、いかにも才色兼備!という感じの魅力的な助教さんと後輩と3人で少し話をした。


この一連の流れの中で思ったのは、あー、わたしは研究者を志したりしなくてほんとによかった、ということ。もちろん、大学のレベルからして、私が通っていた私立大学とは段違いではあるのだが、それにしても自分の若い頃と比べ、学生さんたちも、後輩も、助教さんも、あらゆる面で賢く、分析的で、話をまとめる力があるのだ。もちろん、「年の功」ってのはあるので、話を聞いていて、いろいろ思うことはあるのだけれど、そのぼんやりと思ったことを、彼らと同じレベルというか階層のことばを使って、びしっと明確にまとめて話すなんてことは、ほんとうに、ほんとうに、至難のわざだと思った。


それでも、こんなふうに10代、20代の前途有望な若者たちと話ができるのは刺激的な体験だった。考えてみると前の職場は、先ほどの後輩も含め、年下の有能な編集者たちといっしょに仕事をしていて、自分の頭のはたらきが異様にスローに思えて自己嫌悪に陥ったりしていた。いまは年上の上司と二人だけの職場なので、自分から求めていかないと、年下の人と接する機会がほんとうに少ないのだ。ゆったりしていて居心地満点、なのだけれど、少し物足りないというか、刺激が少ないような気もする。もう少し外部との接点を増やした方がいいのかもしれないな、と思った。


読書のほうは、ここのところ好調で、「当たり」が多い。前回の日記以降の読了本は、キングの『シャイニング』の続編と、ビナードさんの新書。新潮の原田宗典の復活作もよかった。感想、書きたいんだけど眠くなってきた。ので、またいつか。

もしも、詩があったら (光文社新書)

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新潮 2015年 08 月号 [雑誌]

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